歴史を超えて受け継がれてきた、文字盤やムーブメントに用いられる伝統的な技法や機構。その秘密を覗いてみよう。
Guilloche (ギョーシェ)
ギョーシェ彫りは、文字盤の高度な装飾技法である。手動のマシンで複雑な幾何学模様を描く技術は、現在でもごく一部の高級腕時計にのみ伝えられ、用いられている。そもそもは懐中時計の時代に誕生した、歴史と伝統の技法だ。
ギョーシェ彫りは、ブレゲの創業者であるアブラアン-ルイ・ブレゲによって、時計に初めて応用されたと伝えられる。美術工芸的価値の高い表現技法であった一方で、実用上でも欠かせない側面をもっていた。
フラットな文字盤が直射光をまっすぐに反射して生じる“見にくさ”を、ギョーシェ彫りによる光の屈折と乱反射で解消したのだ。現在ではアンチリフレクション加工を施した風防ガラスが担う効果を、知恵と手作業で達成していたのだ。それ以外にも当時の防塵技術では避けられなかった細かなダストの侵入を、パターンが描く溝に止めていたという指摘もある。
しかしなにより、21世紀の現代でも失われないギョーシェ彫り最大のエフェクトは、その美観である。直線と曲線が描く幾何学の不思議は、見る者の視線を捉えて離さない。しかもそれが手動のギョーシェマシンで彫り出された立体であることへの驚きと賞賛は世界共通だ。わずか数十㎜径の文字盤上で行われるギョーシェ彫りは、10分の1㎜単位の彫りの繰り返しでしか姿を現さない、究極の美を生み出すのだ。
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Enamel (エナメル)
窯で焼成して仕上げる本物のエナメル文字盤は、昔もいまもダイヤルの最上級品だ。エナメル調のペイント(コールドエナメル)と区別して「グラン・フー」と呼ばれることが多くなった高温焼成エナメルでは、半分以上が完成に至ることがないという犠牲を払っても、美しい仕上がりの逸品を得ることにこだわっているのである。
基本的なエナメルの原理と技法は、時を超えても変わらない。土台になる金属製のベースの上に釉ゆう薬やくを施し、焼成するのが基本。高温の工程を経ることで、金属を含む釉薬の成分が透明から半透明、不透明までのガラス質に変化して硬化し、全体を覆う。発色に深みやニュアンスを出すために釉薬をかける施せ釉ゆうと焼成の工程は1度とは限らない。美的な完成度を高めるためのそのプロセスの中で、金属盤であるベースは膨張と収縮を繰り返してガラス質に緊張を与え、盤自体も少なからず変形する。冷めないうちに平板に整え、美しいガラス質に仕上げる。この工程で不適な品ができることは避けられない。
単色だけでなく、高級腕時計の文字盤にはさまざまなエナメル技法が使われてきた。クロワゾネ(有線)やシャンルヴェ(盛上げ)などの技法が知られているが、モチーフに切り抜いた金箔で模様を描きエナメルに封じ込めるパイヨンエナメルも、その華麗さで視線を惹きつけるのである。
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高温で美しく焼成する、王道のグラン・フー
最近よく聞かれるようになった「グラン・フー・エナメル」は、高温焼成を経て制作されるエナメル文字盤の王道の技術である。フランス語で「大きな炎」を意味する通り、800℃前後の温度の窯で仕上げるグラン・フーは、割れや変形によるリスクの大きさの半面、完成した際の文字盤の美しさや品格は、他では得られない素晴らしいものになる。
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金箔が映える、細密なパイヨンエナメル
パイヨンエナメルは、ゴールドやシルバーの金属箔を専用の工具で切り抜いた細密モチーフの“パイヨン”で模様を描き、半透明のエナメルで覆って仕上げる技法。18世紀からの伝統技法だが、極めて繊細で緻密な作業と長い制作時間を必要とする。同技術を継承するジャケ・ドローでも、パイヨンエナメル文字盤は月に2枚程度しか作成できない。
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Moon Phase (ムーンフェイズ)
腕時計のムーンフェイズは、二重の意味で異質の装置だ。ひとつはこの機構が、24時間の平均太陽時を基本とする腕時計の太陽暦的なルールの中で、まったく異なる原理をもつことだ。新月から満月、そして新月に戻る月のワンサイクルは約29・5日。24時間×30日の“マンス”は、ムーンと日々ずれていく。ムーンフェイズは、文字盤上の唯一の太陰暦表示なのである。この情報は満潮、干潮といった潮汐と連動していて、過去には特に実用的であった。
もうひとつはその表示が、大抵の腕時計ではほぼ唯一のグラフィックであることだ。夜空と月は、リアルさの度合いはともかく、“描かれ”ているものであり、動画的もしくはアニメーションそのものでもある。腕時計はそもそも、1時間・1分・1秒を360度の角度で表すことからはじまる記号的ルールを適用して読み取ることで成立している。インデックスも、それがバーであれアラビア数字、ローマ数字であっても、数量や位置を示す記号そのものであるし、日付表示も数字記号である。
その記号の系の中にあってムーンフェイズが示す月相は、視覚的情報そのもの。たとえ“十五夜”といった数字的情報に変換できるものであっても、元データである“見た目”そのものを提供する、ロマンティックでグラフィカルな機構なのである。
※この記事はPen 2022年12月号「腕時計、クラシック主義」より再編集した記事です。