名残りの夏、日本発のデッキシューズ、ギョサンから目が離せない。

名残りの夏、日本発のデッキシューズ、ギョサンから目が離せない。

名残りの夏、日本発のデッキシューズ、ギョサンから目が離せない。

初めてギョサンに会ったのは、帰省先の九州、唐津だった。まだ小学生だった息子が一緒だったから、もう10年以上前だったはずだ。白昼の暑さを逃れるために入った古いデパートの入口近くに、「ギョサン」と書かれたワゴンがあって、蛍光色のサンダルが積み重ねられていた。ワゴンには「嵐」の誰かが愛用しているというPOPが、蛍光色のマーカーでデカデカと書かれて貼付けられていた。

手にしてみると、沖縄では島ゾーリの名で溺愛されるビーサンとは、明らかに違う顔、しっかりした作りと、細かい溝が付いている底が印象的だった。
ギョサンとは、「漁業従事者用サンダル」という意味らしい。なるほど、烏賊で有名な呼子もほど近い唐津は、もともと漁師町だから需要があるんだろうな、漠然とそう思った。

名残りの夏、日本発のデッキシューズ、ギョサンから目が離せない。

ギョサンに再会したのは、次の夏、千葉、勝浦だった。当時の県知事の依頼で千葉のムックを作っていて、いくつものサーフポイントを回った。同行してくれたのは、その頃いつも飲み歩いていた俳優の谷原章介くん。サーフィンを始めたばかりの彼が師と仰ぐよっちゃんという伝説のサーファーを訪ねる旅だった。
よっちゃんを取り巻くサーファーたちの足は、みんなギョサンだった。理由を尋ねると「滑らないからさ」、よっちゃんが言った。

つまり、ギョサンはデッキシューズだった。僕ら遅れてきたアイビー世代にとって、デッキシューズと言えばトップサイダー。創業者ポール・スペリーが、凍った路面を滑らずに駆ける愛犬の肉球から思いついたスペリーソールで全米を征した。特に有名になったのは、海軍兵学校に正式採用されたからだ。その後、全米のアイビーリーグの学生たちにも愛され大流行した。ケネディ大統領がお気に入りだったことも有名だ。

ギョサンが生まれたのは、まだアメリカ軍が統治していた頃の小笠原、米兵たちはフィシャーマンズ・サンダルと呼んでいたらしい。ストーリーを知る度に、形から入る世代の僕は、ギョサンが欲しくなった。でも、当時暮らしていた田園都市線沿線では、見つけることはできなかった。やっとギョサンを手に入れたのは、武蔵小山の平和通り商店街、まだなんだか戦後の香りがするネーミングの街だった。

まず黒を買い、カーキ、ブラウン、ゴールドと着実にギョサンの数は増えて行った。甲板で滑りにくいギョサンは、都市の道路でも快適だった。平らなビーサンと違い、クッションに厚みがあって、足を立体的に包み込むので疲れず、歩きやすい。そして、ある日、プレミアムなギョサンがあるという噂が耳に入った。

名残りの夏、日本発のデッキシューズ、ギョサンから目が離せない。

それは、パンサーとゼブラ、アニマル柄のギョサンだった。なんでも、日本一ギョサンを売っているという、小田原のマツシタ靴屋の店頭だけで買えるらしい。海のことは、海の人に聞いてみよう。茅ヶ崎で「クーカイ」という多国籍レストランをやっているミポリンに連絡すると「これだよ」、1枚の写真が送られて来た、ゼブラだ!

これはもう小田原に行くしかない、そう考えていた朝、ミポリンからメッセージ。
「今、小田原です。ギョサン、宅配で送るね」、次の朝にはもう、僕はパンサーとゼブラのオーナーになっていた。この夏、2つのギョサンは街でも、海でも、機上でも大活躍した。「それ欲しい!」と狂喜する人、「えーっ、何それ?」と顔をしかめる人、何れにしてもギョサンはみんなの好機の的、会話の入口になった。

アニマル柄のギョサンをお洒落に履きこなすか、関西のオカンや岩井志麻子さんになってしまうか。そのボーダーが限りなく曖昧なところが、このギョサンの最大の魅力だ。ただ1つだけ、この夏はっきりしたことがある。アニマル柄のギョサンが好きな人に悪い人はいない、それは多くの酒場で実証された1つの結論だ。

実は和装にだって似合ってしまうプレミアムなギョサン。まだまだ暑い日が続きそうな今年の秋、小田原小旅行のついでに、マツシタ靴屋に足を伸ばしてはいかがだろう。パンサーとゼブラ、足元を飾る獣たちはきっと楽しい時間を運んでくれるはずだから…。

名残りの夏、日本発のデッキシューズ、ギョサンから目が離せない。