マイルス・デイヴィスやチャーリー・パーカー。ジャズ界の巨人たちが愛したファッション・アイテム6選

  • 文:小暮昌弘(LOST & FOUND)
  • 写真:宇田川 淳
  • スタイリング:井藤成一

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アメリカのニューオリンズが誕生の地と言われるジャズ。「スイング」「ビバップ」「フリー」など、めまぐるしくスタイルを変えながら何度も黄金期を迎え、その流行は世界的なものになった。今回はそんな歴史をもつジャズ界の巨人たちが身につけた名品を辿る。

ジャズ界の巨人たちが愛した名品① 「ニューポートブレザー」

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J.プレスの定番プロダクトを再構築する「HERITAGE STOCK PR0GRAM」で展開されている4ボタンブレザーにビームス ライツが別注したモデル。メタルボタンが箇所ごとに変えられたクレージー仕様で、背裏の柄も特別なものに変更されている。素材はウール100%のトロピカル。¥63,800(税込)/J.プレス×ビームス ライツ 

現在放送中のNHK連続テレビ小説『カムカムエヴリバディ』は、岡山・大阪・京都を舞台に、母娘三世代に渡って繋がれた物語。タイトルになっているNHK英語講座とともに、物語の重要な役割を担っているのがジャズ。主人公のひとり、安子(上白石萌音)の娘るい(深津絵里)の名前はジャズの巨人ルイ・アームストロングから採られたもの。るいの娘ひなた(川栄季奈)の名前は、彼の名曲『On The Sunny Side Of The Street』の訳詞である「あなたとひなたの道を歩いていきたい」から採られたものだ。そのほかにも、ジャズ奏者でるいの夫になる大月錠一郎(オダギリジョー)は、トランペットをルイ・アームストロングと同じ白いハンカチを持ちながら吹いていたり、ジャズに感銘を受けた後の日本人にまつわる逸話が丁寧に描かれていたりなど、ジャズ好きには堪らないテレビ小説に仕上がっている。

ルイ・アームストロングは、「ジャズの父」とも言われる人物。1901年、ジャズ発祥の地・アメリカのニューオリンズで生まれる。子どものころに、いたずらでピストルを撃ってしまったことで少年院に入れられるが、そこでトランペットを覚える。少年院を出てからはニューオリンズのいろいろなバンドで演奏するようになり、やがてシカゴやニューヨークで活躍するようになる。彼は「ジャズボーカルの父」とも言われているが、当時からヴォーカルグループで歌も披露していて、器楽ジャズとヴォーカルジャズの橋渡し的な役割も果たし、独特な「スキャット」の生みの親である。またエンターテイナーとしての素質もあったので、映画にも多数出演、『ニューオリンズ』(47年)『ヒット・パレード』(48年)『五つの銅貨』(59年)で、彼が歌う姿が観られる。

【続きはこちらから】伝説のジャズ映画に触発されて誕生した「ニューポートブレザー」とは?

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ジャズ界の巨人たちが愛した名品② チャーリー・パーカーのスーツ

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イタリアのカルーゾのモデルラインナップの一つ「ドロップゼロ」のセットアップスーツ。ウエストの絞りがほぼない独特のシルエットが特徴で、モダンさが感じられる。クラシックなテーラードスタイルの新しい方向性を感じるシルエットだ。素材はウール100%、ベージュの色合いもいい。ジャケット¥195,800(税込)、パンツ¥48,400(税込)/カルーゾ、シャツ¥33,000(税込)/ソブリン、ネクタイ¥17,600(税込)/ホリデー&ブラウン(すべてユナイテッドアローズ 六本木ヒルズ店)

ジャズの歴史を語る上で欠かすことのできないミュージシャンはチャーリー・パーカーと見て間違いないだろう。40年代半ばに起こったジャズの即興スタイルである「ビバップ」をディジー・ガレスビーとともに生み出し、ジャズの表現を飛躍的に進化させた人物。現在世界中で演奏されているジャズの根幹を形づくったのが、チャーリー・パーカーだ。

1920年、カンザス州カンザスシティで生まれたチャーリー・パーカー。11歳のときに母親からプレゼントされたアルト・サックスが、ジャズに染まるきっかけに。35年にハイスクールを退学すると、チャーリーはすぐにプロとして演奏をしだし、40年にカンザスを訪れていたディジー・ガレスビーに出会う。ルイ・アームストロングは彼の即興的な演奏を「チャイニーズ・ミュージック、つまり訳のわからない音楽」と評したが、その場所でしか聞けないといういわば事件性を持った彼の演奏は人気を呼び、彼の愛称を冠したジャズクラブ「バードランド」をニューヨーク52番地に開くまでになる。「バード(Bird)」の愛称は、彼のチキン好きを称して、あるいは彼がはねてしまった鶏を食べてしまったとか、由来は諸説ある。

当時の多くのジャズ奏者と同じく、薬物を摂取して演奏することがほとんどで、薬が切れると錯乱状態になり病院に収容されこともあった。1955年、ニューヨークのセントラルパーク近くのホテルで亡くなったときはわずか35歳。その悲劇的な人生はクリント・イーストウッドが監督を務めた『BIRD』(88年)で克明に描かれていたが、亡くなったときに駆けつけた検視官が彼の亡骸を見て、年齢を60代と推察する。それほど病んでいたのだろう。チャーリーが乗り移ったように見えるフォレスト・ウィテカーの演技が見事だ。

【続きはこちらから】ビバップの生みの親、チャーリー・パーカーのファッションをひも解く

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ジャズ界の巨人たちが愛した名品③ セロニアス・モンクの帽子

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イタリアの老舗帽子ブランド、ボルサリーノの「アレッサンドリア ショートブリム」というモデル。4.7cmのブリムに4cmのワイドなリボンを付けたモデルで、セロニアス・モンクが愛用した帽子に似ている。素材に上質なラビットファーを使用した「アレッサンドリア」ラインの定番モデル。茶の色合いもモンクが活躍した時代を想像させる。¥55,000(税込)/ボルサリーノ

多くのジャズ評論家が“唯一無二”の個性と評するピアニストのセロニアス・モンク。彼の名前が入った『セロニアス・モンクのいた風景』(新潮社)で、村上春樹は「極北でとれた硬い氷を、奇妙な角度で有効に鑿削っていくようなピアノの音を聴くたびに『これこそがジャズなんだ』と思った」と彼の演奏を見事に評する。

1917年ノースカロライナに生まれたモンクは、母親が購入した自動ピアノに魅了され、ピアノに関心を寄せるようになる。10代からジャズピアニストとして活動をはじめ、ハーレムのナイトクラブ「ミントンズ・プレイハウス」の常連プレーヤーに仲間入りし、チャーリー・パーカー、ディジー・ガレスビーらとジャムセッションを行い、「ビバップ」発展に大きな役割を担った。マイルス・デイヴィスの十八番『ラウンド・ミッドナイト』を作曲したのはモンク。しかし54年に一緒に演奏したときには「オレがソロをとっている間、ピアノは弾くな!」とマイルスから怒鳴られる。個性的なモンクのパッキングをマイルスは嫌ったのかもしれない。モンクは理論家で、バド・パウエルやジョン・コルトレーンに演奏のアドバイスを与えたこともあったという。

そんなモンクが亡くなって今年で40年を迎え、『MONK モンク』『モンク・イン・ヨーロッパ』という2本のドキュメンタリー映画が公開された。映像は60年代、彼の円熟期の姿が収められ、自身のカルテットを率いたモンクのスタジオ録音やヨーロッパツアーの様子、プライベートライフまで肉薄する。また声だけだが、モンクが登場する映画『ジャズ・ロフト』が昨年日本でも公開されている。これは写真家のユージン・スミスがマンハッタンの28丁目に借りていたロフトで50年代に行われていた、ジャズミュージシャンによるセッションを追ったドキュメンタリー。没後40年という節目で、モンクに再びスポットライトが当たっているのだろうか。

【続きはこちらから】稀代のジャズピアニスト、セロニアス・モンクを想起させる帽子

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ジャズ界の巨人たちが愛した名品④ ビル・エヴァンスの眼鏡

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ビル・エヴァンスが愛用した「ジャズ」というモデルの眼鏡の復刻品。製作したのは、こだわりある日本の眼鏡ブランドであるBJ CLASSIC COLLECTION。50年代まで使われていたセルロイド素材まで復刻させている。日本の高い技術によってなし得た、まさに名品。¥39,600/BJ CLASSIC COLLECTION

ジャズピアノの巨人、ビル・エヴァンスは日本でも多くのファンをもつ。私もその一人だ。ピアノ・トリオという新しいジャズのスタイルを創造し、『ワルツ・フォー・デビイ』(61年)のようなメロディアスな曲もあるので、ジャズビギナーでも聞きやすい。しかし入りやすいが奥が深いのも彼の特徴。マイルス・デイヴィスの名盤『カインド・オブ・ブルー』(59年)は、エヴァンスの演奏なくしては成立しなかったとも言われている。

ビル・エヴァンスは1929年8月16日、アメリカのニュージャージー州に生まれる。本名はウィリアム・ジョン・エヴァンス。典型的な中流家庭で育ち、2歳年上の兄ハリーとともに教会でピアノに触れる。高校に進むころには“近所で評判のピアニスト”として知られるようになる。『ビル・エヴァンスについてのいくつかの事柄』(中山康樹著 河出書房新社)によれば、15歳になるころには「エヴァンスにプロ・ミュージシャンとしての自覚はなかったかもしれない。だがピアノを弾いて報酬を得るようになっていた」と書かれている。『ジャズの巨人 02 ビル・エヴァンス』(小学館)でジャズ評論家の後藤雅洋は、「チャリー・パーカーの一世代下、マイルス・デイヴィスの弟分という立場」と書くが、彼のジャズ界で置かれていたポジションをよく表している。

その後、エヴァンスは徴兵されるが54年には除隊。同書には「ビパップ」から「ハード・バップ」へと移行するジャズ黄金時代の55年、ジャズの中心地ニューヨークに進出したと書かれている。58年にはマイルスのバンドに抜擢され、59年に前述の『カインド・オブ・ブルー』をマイルスとともにつくり上げる。翌年バンドを脱退したエヴァンスは、ベースのスコット・ラファロ、ドラムのポール・モチアンとピアノトリオを結成し、『ポートレイト・イン・ジャズ』(60年)や『ワルツ・フォー・デビイ』(61年)を完成させた。

【続きはこちらから】ビル・エヴァンスのアイコンだったセルフレームの眼鏡

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ジャズ界の巨人たちが愛した名品⑤ チェット・ベイカーのニットTシャツ

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希少なシーアイランドコットンを素材に、30ゲージで編まれたクルーネックタイプ。この「S4409」というモデルは、ドレスシーン、カジュアルシーン共により広く着用できるように従来モデルをバージョンアップさせた仕様。着丈を若干長く、首回りのリブを調整して首により沿うように修正を加えた。一枚で着ても絵になる老舗らしい名ニットTだ。¥29,700(税込)/ジョン スメドレー

「チェット・ベイカーの音楽には、紛れもない青春の匂いがする。ジャズ・シーンに名を残したミュージシャンは数多いけれど、『青春』というものの息吹をこれほどまで鮮やかに感じさせる人が、ほかにいるだろうか?」

ジャズに詳しい作家の村上春樹は『ポートレイト・イン・ジャズ』(新潮文庫)のなかでチェット・ベイカーをこう評する。

チェット・ベイカーは1929年にアメリカ中部のオクラホマに生まれる。本名はチェズニー・ヘンリー・ベイカー。父親はプロのギタリストで、母親もピアノを弾くといういわば音楽一家だった。最初に父親に買ってもらったのはトロンボーンだったが、その後トランペットに転向。十代で徴兵されたチェットは、軍楽隊員としてドイツに駐屯したこともある。50年代にサンフランシスコに駐屯するようになると、地元のジャズクラブでセッションに参加するようになり、除隊後の52年6月には「ビバップ」の開祖、チャーリー・パーカーの西海岸ツアーに抜擢。同年7月にはジェリー・マリガン・カルテットに参加し、一躍注目を浴びる。当時のジャズの雑誌『メトロノーム』の読者人気投票では、54年、55年と連続して1位を獲得、マイルス・デイヴィスをも上回る人気を得ていたというから驚くではないか。

チェットの大きな特徴は「歌う」ことだ。ジャズの父、ルイ・アームストロングも「歌うトランペッター」だったが、ルイはアクの強い「ダミ声」が魅力だった。一方、チェットの歌は、上手いか下手かはともかくとしてメロウでとても聞きやすい。味があり、心に響く。スタンダードナンバー、ときにはロックの名曲まで歌っているが、どれも彼流のジャズに仕立てている。彼の声を「中性的」と表現するジャズ評論家もいるくらい。しかしそんな彼の声の聞きやすさが普段はジャズを聞かない層にまで響き、当時、人気を集めたのだろう。

【続きはこちらから】
歌うトランぺッター、チェット・ベイカーが愛用した白のニットTシャツ

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ジャズ界の巨人たちが愛した名品⑥ マイルス・デイヴィスとイッセイ ミヤケ

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オム プリッセ イッセイ ミヤケの「BASICS」シリーズのパンツ。携帯性と速乾性に優れたプリーツ素材ならではの軽やかな着心地が楽しめる。「消しプリーツ」を施したモデル。素材はポリエステル100%。¥24,200(税込)/オム プリッセ イッセイ ミヤケ

はやジャズというジャンルの範疇を超えた存在と断言できるマイルス・デイヴィス。本人が言うように「マイルス・デイヴィスという音楽」を創った、まさに音楽界の巨星だ。

マイルスは1926年、アメリカのイリノイ州に歯科医の息子として生まれる。本名はマイルス・デューイー・デイヴィス3世。家庭は裕福だった。18歳のとき、ディジー・ガレスビーとチャーリー・パーカーを聴いて「ビバップ」の洗礼を受け、クラシック音楽の名門ジュリアード音楽院に行くという名目でジャズが盛んだったニューヨークに移り住む。

「ニューヨークに出てきたその週に、(チャーリー)パーカーを捜し回って、その月の生活費を全部使ってしまった」と『マイルス・デイヴィスの真実』(講談社+α文庫)で音楽ジャーナリストの小川隆夫は彼の言葉を記す。やがて10代でチャーリー・パーカーのバンドに迎え入れるようになるまでに腕を上げたマイルス。以降、90年代までさまざまな新機軸を提案しながら、ジャズの最先端を常に表現していく。

【続きはこちらから】マイルス・デイヴィスがステージでも身につけるほど愛した、イッセイ ミヤケというブランド