シンガポールの建国より古い歴史を有する「ラッフルズ・ホテル・シンガポール」。世界各都市にラグジュアリーホテルが増え続ける今も、格別の輝きを放ち続ける孤高の存在だ。食、酒、旅をメインに取材するライターの佐々木ケイが、滞在を通じて触れた歴史の秘話と、魅力あふれるダイニングを紹介する。
シンガポール初の3ミシュランキーを獲得する、旅人の“永遠の憧憬”。
アジアを代表するラグジュアリーホテルであると同時に、シンガポールのシンボル、ランドマークとして君臨し続ける「ラッフルズ・ホテル・シンガポール」。開業から139年に及ぶ歴史の威光を輝かせながら、最新の話題と現在進行形の憧憬をほしいままにする類まれなホテルだ。「世界のベストホテル50(The World's 50 Best Hotels)」の2025年版で第5位にランクイン、ミシュランガイドではシンガポール初の3ミシュランキーを取得するなど、近年に至るまでタイトルは枚挙にいとまがない。
今夏、光栄なことに「ラッフルズ・ホテル・シンガポール」に宿泊する機会を頂き、シンガポールを訪れた。12年ぶり二度目で、2023年にリニューアルしたチャンギ国際空港のモダンな意匠とスケール感から圧倒される。経済成長著しい(2025年は+4.8%)シンガポールは、街全体にややカオスな勢いがみなぎっていた。
「前回が10年以上前なら、もう別の国ね」とホテルの担当者に言われたが、御意。が、ひとたび「ラッフルズ・ホテル・シンガポール」に足を踏み入れれば、悠遠な時代の一幕に紛れ込んだかのような感慨を覚える。
ホテルは2017~2019年にかけての大規模修繕を経ていまに至る。経年で傷んだ部分を改修し、客室数は12室増えて計115室に。スイートルームのバリエーション(リニューアル後は全室がスイートルーム)と、現代的なファシリティーがますます充実した。
バスルームはロマンティックかつ快適に調えられ、照明からテレビ、ブラインドの操作までがタッチパネルに一元化されている。コロニアル様式が壮麗な白亜の内外観はそのままに。もちろん「ラッフルズ・ホテル・シンガポール」の“顔”ともいえる、ターバンを巻いたドアマンは健在で、バトラーサービスは全客室のゲストへ拡充された。
「バトラー(日本語訳は「執事」)」といえば、カズオ・イシグロの小説『日の名残り』と、アンソニー・ホプキンス主演の映画化(ともに名作!)を思い出すのだが、両作品でもよく描かれているように、元々はイギリスの貴族の家に仕える上級使用人のこと。使用人といっても、家事労働などはせずパーソナルな従者、秘書的な役割を果たす。転じてのホテルにおけるバトラーなわけで、ラグジュアリーホテルの中でも限られた一部にしか行っていない特別なサービスであることはご存じの通り。
「ラッフルズ・ホテル・シンガポール」では、チェックインも客室でバトラーが行う。ウェルカムカクテルの「シンガポールスリング」(後述)と、クラフトチョコレートのサービスを挨拶代わりに「なんなりと、ご遠慮なくお申しつけを」と、笑顔で。一流のホスピタリティに恐縮しつつ、イギリス統治時代の長かったシンガポールの文化に思いを馳せた。
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ホテルとシンガポールの成り立ちを知る、歴史探訪ツアー。
「ラッフルズ・ホテル・シンガポール」の開業は、シンガポール建国より早く、ホテルの歩みは土地や国の歴史とも密接だ。理解を深めるには、滞在中にホテルのヘリテージツアーに参加するのがおすすめ。1887年の創業から1987年の国定史跡指定、1989年と2017年の二度にわたる大規模改装、ホテルに関連する著名人や館内随所に潜む象徴的なアイテムまで、幅広く知ることができる。
たとえば、ロビーの吹き抜けで輝きを放つシャンデリア。2017年からの二度目の改装時にチェコ共和国で特別に製作されたもので、手仕事によるクリスタルパーツは8130個、重さは900kgにも及ぶ。価格はなんと100万シンガポールドル(約1億2千万円)と、のっけから規格外の話に眩暈がする。
シンガポール経済の中心となるビジネス街、官庁街の中心地に建つこのホテルの歴史は、ペルシャ系アルメニア人のサーキーズ4兄弟が1887年、海沿いに建てた10室の宿泊施設から始まる。1965年にシンガポールが建国される78年も前のことだ。1890年に海岸の埋め立てが行われたことで、海までの距離が約2kmになり、かつてのビーチが「ビーチロード一番街」という通りになっている。
ホテルが移転したのではなく海岸線が移動したわけで、シンガポールという国が埋め立てにより領土を拡大してきた歴史を物語るエピソードだ。1899年に2階建ての建物を取り壊して現在の3階建てに建て替えたが、現在の正面外観はその完成時とほぼ同じというのも驚きである。
創業100年を迎えた1987年、国定史跡及び歴史的建造物に指定され、建物は、取り壊されることなく保存されることとなった。西洋から見た東洋の神秘性やエキゾチシズム、熱帯地方の大らかさとヴァイタリティ、バトラーサービスに象徴される英国の気品が融合した建物とホスピタリティ文化の豊かさ、唯一無二性に心を打たれることしばしばの滞在となった。
この場所を愛した著名人は、各国の王族や首脳はもちろんのこと、ラドヤード・キップリングにジョセフ・コンラッド、チャールズ・チャップリンからマイケル・ジャクソンらの文化人、ポップスターに至るまで枚挙にいとまがなく、数多の写真が展示された「Hall Of Fame」でのひとときは、ヘリテージツアーのクライマックス。ちなみにツアーのガイド役を専門の学芸員スタッフが担う点も、単なる宿泊施設を超えた存在であることを示している。
ツアーでも紹介があるほど、ホテルのアイコンとして欠かせないのが「シンガポールスリング」。シンガポールの国名を冠し、いまや世界中で親しまれるスタンダードカクテル、その発祥が「ラッフルズ・ホテル」のロングバーであるという話はあまりに有名だ。
まだ女性が公の場でアルコールを飲むことが好まれなかった20世紀初頭、ホテルのバーテンダー、ニアン・トン・ブーンにより考案されたフルーツパンチのような見た目のカクテルには、当時の時代の最先端とバーテンダーのホスピタリティが凝縮されていて、それはホテルの哲学にも重なる。
「ロングバー」は2017年からの改装で移転リニューアルしたが、手動式天井扇が優美な内装などは、古き良き時代のまま。ビジター利用も可能で、開店時間の前からできる行列も含めシンガポール“ならでは”の景色になっている。
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一軒ごとのレストランがデスティネーションになる、実力店揃いのダイニング。
ヘリテージツアーは宿泊者限定だが、「ロングバー」を筆頭に、ホテルのダイニング、バーは宿泊客以外にも開かれている。ラウンジにクリエイティブなカクテルが楽しめるバー、熟成庫を備えたステーキハウスまで計8軒、ロケーションにインテリア、メニューに至るまでバラエティ豊かでそれぞれ個性が光り魅力的。
アジアの美食都市シンガポールにあっても、トップレベルの味が揃い、やはり「ロングバー」同様、独立したデスティネーションとして、多くのゲストをホテルに迎え入れている。結びに、滞在中に味わった中でとりわけ印象に残り、かつ、多民族国家シンガポールの食の今を体現する3軒を紹介しよう。
今年3月に開業し、わずか半年足らずでミシュランガイドの二つ星を獲得。歴史あるホテルのフォーマルダイニングルームを継承する「1887バイ・アンドレ」は、アジアのデスティネーションレストランとしていま、最注目の一軒だ。「レストラン アンドレ」(2010~2018年)でシンガポールから世界のスターシェフへと駆け上がった台湾人シェフ、アンドレ・チャンの凱旋。
「コンテンポラリー・ヘリテージ・ガストロノミー」を標榜し、100年前のレシピを再構築した「タートルスープ」や、自身が20年以上つくり続けるシグニチャー「フォアグラのロワイヤル」といった料理をアラカルトで供する。フレンチならではの骨格と時間軸を持つ味わいは、確かな技術とコンテクストを内包している。著名なデザイナー、ビル・ベンスリーが手掛けたマキシマムなインテリア、伝統のテーブルサイドサービスなど、ファインダイニングの洗練と優雅さも、自由でリラックスした食事の時間に華を添えてくれる。
体験型のアート作品のようなエントランスは、アジアのフーディの間で「映えスポット」としても有名。中国語で「芸術」を意味する「藝 yì」名が示すアーティスティックな食体験のイントロダクションとして相応しい。厨房を仕切るのはシンガポールが生んだ世界的な中国料理人、ジェレミー・レオンだ。13歳で料理の世界に入り、中国で長きに渡り各地の食文化を掘り下げ、技術を磨き、卓越した表現を作り上げた。
蛇腹状のカットの美しさに息を飲むキュウリの前菜、パイナップルの果実味と香りを添えた「文思豆腐(ウェンスードウフ、極細切りの豆腐スープ)」など、五感を刺激する華やかな料理で、精巧な包丁仕事やクリアで深みのある清湯など、中国料理の豊饒を味わうことができる。バラの花びらのソースで食す北京ダックに、北イタリアのスパイシーかつ冷涼感のある赤ワインを合わせるなど、自由かつ驚きのあるワインの提案も印象に残った。
イギリス統治下でインドの文化・経済がもっとも繁栄した黄金期に重なる1892年に創業。「ラッフルズ・ホテル・シンガポール」で最古の歴史を誇るレストランが「ティフィンルーム」だ。現在は、伝統的な宮廷料理にインスピレーションを得た北インド料理を楽しめるファインダイニングとして支持されている。
乾杯のシャンパーニュとともに味わうパニプリに始まり、ラムのタンドールや車エビのケバブなどの料理は、用いられているスパイスのクオリティや新鮮さに思いを馳せずにいられない鮮烈な味わいで、北インド料理の印象をアップデートしてくれる。インド北西部・ラージャスタン州伝統のラムカレーや有機レンズ豆のカレーなどのメイン料理も然りで、バスマティライスに香るサフランの高貴な香り、プレーン、バター、ガーリックの3種のナンの洗練まですべてため息ものだ。

佐々木ケイ(ライター/エディター)
情報誌編集部を経て、2004年よりフリーランス。食と農、酒、旅などをテーマに、「人と味」「土地と食文化」の視点から国内外の都市、ローカルを取材、執筆。JSA認定ワインエキスパート。Instagram @sasaki__kei
ラッフルズ・ホテル・シンガポール
1 Beach Road, Singapore 189673
☎︎65 6337 1886
www.raffles.com