Pen本誌では毎号、作家・小川哲がエッセイ『はみだす大人の処世術』を寄稿。ここでは同連載で過去に掲載したものを公開したい。
“人の世は住みにくい”のはいつの時代も変わらない。日常の煩わしい場面で小川が実践している、一風変わった処世術を披露する。第32回のキーワードは「感想の難しさ」。
以前、とある文学賞の選考会で、ある選考委員がAという作品を褒める根拠と、Bという作品を貶す根拠が、ほとんど同じであると感じたことがあった。その選考委員の言葉ではないが、たとえば「わかりやすい」という言葉は作品を褒める言葉にもなるし、貶す言葉にもなる。ある人物の性格を「優柔不断」と言えば批判することになるが、同じ性質を「思慮深い」と表現すれば褒め言葉になり得る。なにかを構成する要素は常に二面性を持っている。
小説でも映画でも漫画でもいいのだが、作品の感想を他人に伝えることの難しさの一端は、この二面性にあるように感じている。好きな作品に対して「どこがいい?」と聞かれた時、僕たちは「どうして自分はこの作品が好きなのだろうか」という自問自答をすることになる。なんとか言語化しようとして、作品の一要素を切り出し、「主人公に共感できた」などと答えたとする。そう答えつつ、「主人公に共感できたのに、嫌いだった作品もあるな」と思い返し、頭を抱えることになる。嫌いな作品について述べる時も同様で、どれだけ嫌いな理由を語り尽くしても、その理由が本当に「嫌い」につながるのか自信がないこともある。ハッピーエンドが「ご都合主義」に感じることもあるし、バッドエンドが「人生の本質を見事に表現している」ように感じることもある。
なにかの作品に触れ、僕たちが真っ先に感じるのは「好き」か「嫌い」(あるいは「普通」)のどちらかだろう。その前提から無理矢理、理由を捻り出そうとした結果、「わかりやすい」を褒めるためにも貶すためにも使ってしまう。感想を表現するのが難しいのは鑑賞者として未熟で、自分の考えを言語化する訓練が足りていないからだ――というわけでもなくて、日常的に小説を書いたり読んだりしている僕だって、二面性の罠から完全に逃れることはできない。嫌いな作品の嫌いな理由を書き連ねるうちに、同じ言葉を好きな作品の好きな理由に対して使っていたことに気付いたこともある。
僕が「好きな人のタイプは?」という(ありふれた)質問の存在意義を疑っているのも同じ理由だ。多くの場合、僕たちは特に理由もなく誰かのことを好きになる。一度好きになってしまうと、それまで許せなかった性質が許せるようになったり、嫌だと思っていた性格が魅力的に見えてしまったりする。もちろん、好きになる過程にある種の傾向のようなもの(たとえば「背が高い人を好きになりやすい」とか「よく笑う人を好きになりやすい」など)はあるだろうが、「背が高い人」や「よく笑う人」を自動的に好きになるわけではない。
同様の理由で、他人を表現する時に「包容力」という言葉を使うのも嫌いだ。「包容力」という言葉も、なぜか(理由もなく)好感を持った相手の性質を無理矢理言語化した言葉であるような気がしていて、「包容力がある」かどうかは、相手に対して好感を持っているかどうかの言い換えにしかなっていないように感じている。
ワイドショーやSNSでご意見番みたいな存在が重宝されるのは、僕たちが漠然と抱く好き嫌いという感情の根拠を、彼らが言語化してくれるからだ。とはいえ、ものごとの好き嫌いの根拠を必要以上に他人に委ねすぎると、自分の基準自体がゆらいでしまい、最終的には自分の言葉で感想を口にすることができなくなってしまう。そうなってしまうよりは、「好きなものは好き」「嫌いなものは嫌い」という最初の感覚を大切にして、自然に言葉が出てくるようになるまでは無理に言語化しないでおいたほうがいいと思う。
小川 哲
1986年、千葉県生まれ。2015年に『ユートロニカのこちら側』(早川書房)でデビューした。『ゲームの王国』(早川書房)が18年に第38回日本SF大賞と第31回山本周五郎賞受賞。23年1月に『地図と拳』(集英社)で第168回直木賞受賞。近著に『スメラミシング』(河出書房新社)がある。※この記事はPen 2025年8月号より再編集した記事です。