“失恋”はなぜ若いうちに経験しておいたほうがいいのか?【はみだす大人の処世術#31】

  • 文:小川 哲
  • イラスト:柳 智之
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Pen本誌では毎号、作家・小川哲がエッセイ『はみだす大人の処世術』を寄稿。ここでは同連載で過去に掲載したものを公開したい。

“人の世は住みにくい”のはいつの時代も変わらない。日常の煩わしい場面で小川が実践している、一風変わった処世術を披露する。第31回のキーワードは「失敗は“抗体”」。

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子どもの頃の僕は、ありとあらゆる感染症にかかって両親を心配させたらしい。僕はそのことを一切覚えていないのだが、そのおかげか大人になってからは幸運にも大病もせずに過ごすことができている。たとえば麻疹(はしか)なんかは、子どもの頃に罹患するのに比べて、大人になってからは重症化しやすいと言われている。結果的に僕は、物心つく前にいろんな抗体を手に入れることができていたということになる。

感染症以外にも、人生にはなるべく若いうちに抗体をつけておくべきことが数多く存在する。たとえば、僕が「意味不明なインテリア用品を買ってしまう」ことの抗体を獲得したのは18歳の頃だ。ひとり暮らしを始めたばかりの4月に雑貨屋で、ガラスの中で熱せられたオイルが流動的に浮き上がる照明(?)みたいなものに心を奪われ、五千円程度で購入した。翌週には、なぜ自分がこんなものを買ってしまったのかと後悔し始めていた。部屋の雰囲気に合っていないし、オイルを浮かせるために非常に高温になっていて触れると火傷する。処分しようにも、どのゴミの日に出せばいいのかわからず、次に引っ越しをするまでの10年間ずっと収納の奥に眠らせていた。一度しか着なかった服に何万円も払ったり、意味不明な場所に紐が付いていて履きづらい靴にバイト代を注ぎ込んだり、気合いを入れて揃えたお香のセットを燃えるゴミの日に捨てたり、ひとり暮らしを始めたばかりの頃は、買い物で数多くの失敗をした。とはいえ、その頃に抗体をつけておいたおかげで、最近は買い物で大きな失敗をすることが少ない。その瞬間とても魅力的に見えても「どうせ使わなくなるだろうな」と考えを改めることができるようになったのだ。クルマや不動産の買い物に失敗している友人の話を聞くと、若いうちにたくさん失敗しておいた自分をいまでは褒めたくなる。

多くの抗体の中でも、若いうちに獲得すべきだと強く思うのは“失恋”だ。その人のこと以外考えられないくらい夢中になる。1通のメールを送るのに何分も悩んで、送った後はいつ返信が来るのか不安で1日中携帯電話をチェックしてしまう。僕にも、そんな恋をしていた時期があった。それなりに長い期間付き合った彼女と別れることになって、3日くらい家から出ることもできなくなるくらい傷つく。こういう経験を若いうちにして、抗体を獲得していたおかげで、大人になってから恋愛で手痛い失敗をすることが減ったと思う。

知人の中には、30歳を過ぎてそれなりの社会的地位を得てから大失恋を経験し、そのせいで仕事やキャリアに支障が出てしまっている人もいる。大人になってからの恋愛は、投資する金額も、周囲に与える影響の大きさも、学生時代とは比べものにならないほど大きい。恋愛はある種の心の病なので、仕事や他の私生活と完全に分けて楽しむことが難しい。思考は鈍り、判断能力は低下し、感情は不安定になり、夜も眠れなくなる。一度も“失恋”を経験していない大人が罹患すると、麻疹のように重症化し、取り返しのつかない事態を招くことになる。

もちろん、(感染症がそうであるように)一生罹患しないまま、それこそ買い物も失敗せず、恋愛で痛い目にも遭わず、そのまま駆け抜ける人生もあり得るだろう。とはいえ、多くの人は日々失敗を重ねて生きているはずだ。受験に失敗したり、就職に失敗したり、子育てに失敗したり、人生にはいろんな失敗がある。まだ取り返しのつく状況にいるのなら、それらの失敗を“抗体”だとポジティブに考えてみるのもいいかもしれない。

小川 哲

1986年、千葉県生まれ。2015年に『ユートロニカのこちら側』(早川書房)でデビューした。『ゲームの王国』(早川書房)が18年に第38回日本SF大賞と第31回山本周五郎賞受賞。23年1月に『地図と拳』(集英社)で第168回直木賞受賞。近著に『スメラミシング』(河出書房新社)がある。

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※この記事はPen 2025年7月号より再編集した記事です。