ついに本格始動する飛騨高山蒸溜所。廃校を利活用したウイスキー蒸留所に、創業者が込めた想いとは?【前編】

  • 写真:香賀万里和
  • 文:西田嘉孝  
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飛騨高山蒸溜所の創業者であり、舩坂酒造店の社長を務める有巣弘城さん。地元への愛が強く、飛騨高山の秋祭りで披露される布袋台のからくり奉納では、9名しかいない操り手の一人としても活躍する。

今や計画中のものも含めると、日本のウイスキー蒸留所は約70カ所にもなる。そのすべてから美味しいウイスキーが生まれるかどうかはわからないが、間違いなくそれぞれの蒸留所にはそれぞれのドラマがあるはずだ。

2022年の春、さまざまな人たちの思いを乗せて、岐阜県初のウイスキー蒸留所としてスタートを切った飛騨高山蒸溜所プロジェクト。この連載ではそこに関わる人たちにスポットを当てながら、一つのウイスキー蒸留所がどのようにできていくのかを追いかけたい。

ついに完成した飛騨高山蒸溜所へ

乗鞍岳と御嶽山という3千メートル級の山々に囲まれ、凄烈な空気と豊かな水に恵まれた高山市高根町。過疎の進む山間の村で廃校となった小学校を、ウイスキー蒸留所として蘇らせる——。そんな「飛騨高山蒸溜所プロジェクト」の実行開始が宣言されたのは、2022年4月4日のことだ。

その日からちょうど1年が過ぎようとしていた2023年3月25日、真新しい設備が導入され、ウイスキー蒸留所へと生まれ変わった旧高根小学校で“開校式”が行われた。

連載「ウイスキー蒸留所のつくり方」第4回目では、本格稼働を果たした飛騨高山蒸溜所の創設者である有巣弘城さんが、ウイスキー事業に乗り出すまでのストーリーを紹介する。

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完成した蒸留所の関係者やメディアのお披露目として開かれた開校式。高根小学校と書かれた看板などは往時のままだ。

時が止まっていた小学校で、再び行われた“開校式”

地域の過疎化により2007年に廃校となった旧高根小学校で、16年ぶりに行われた“開校式”。

校舎から体育館へとつながる通路だった部分には麦芽の挽きわけを行うモルトミルが設置され、体育館に入るとマッシュタンや4基の木製発酵槽などが中央のスペースをぐるりと取り巻くように設置されている。そして舞台上には、世界初の鋳造製蒸留器である「ZEMONⅡ」が鎮座する。

16年前までは子どもたちの遊ぶ声が響いた体育館に、ウイスキーづくりに必要な設備が整然と美しく配置された蒸留所。世界にウイスキー蒸留所は数あるが、体育館の舞台上に蒸留器が並ぶインパクトのある光景は、ここでしか見ることができないものだ。

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2階の見学通路から俯瞰した蒸留所。舞台に設置された2基の鋳造製ポットスチル「ZEMONⅡ」の存在感が圧巻だ。

かつては生徒たちが使っていた椅子が並べられた体育館で、懐かしい雰囲気のなかスタートした“開校式”。式典には、三郎丸蒸留所の稲垣貴彦さんをはじめとする飛騨高山蒸溜所開設プロジェクトメンバーや、地元の家具メーカーである日進木工の会長であり高山商工会議所の会長も務める北村斉さん、十六フィナンシャルグループ代表取締役社長の池田直樹さん、アリスグループ代表の有巣秀司さんをはじめ、多くの関係者やメディアが出席。

旧高根小学校の最後の校長先生となった砂田明伸さんや、今ではお母さんや社会人になった元生徒たちもサプライズで登壇し、それぞれにたくさんの思い出が詰まった小学校に新たな息吹が吹き込まれた喜びや、飛騨高山蒸溜所への期待を語った。

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麦芽を粉砕するモルトミルの脇には、すでに原料となる麦芽が搬入されていた。当初使用するのは英国クリスプ社のノンピートモルト。将来的には地元産大麦の使用も視野に入れる。

完成した飛騨高山蒸溜所が初めて多くの人々に披露された“開校式”。この日を迎え、ひときわ感慨深い表情を浮かべていたのが、飛騨高山蒸溜所の創設者である有巣弘城さんだ。

「2023年はジャパニーズウイスキーの誕生から100周年となる節目の年。国産ウイスキーが売れず苦境に陥った時代を乗り越え、多くの先人たちが努力を重ねた結果が、現在のウイスキー人気につながっています。ウイスキービジネスは未来へと繋ぐもの。地域の宝として大切に守られてきたこの小学校でスタートするウイスキーづくりを、地域のプライドとして未来に受け継がれる事業に育てていかなければならないと考えています」

“開校式”ではそう決意を語った有巣さん。飛騨高山で生まれ育ち、一度は東京の企業に勤めた有巣さんが、高山に戻りウイスキー事業に乗り出すことを決めたのはコロナ禍の2021年のことだった。

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支援者や地域の人々への感謝と決意を述べる有巣さん。演台にもある蒸留所のロゴマークは、東京2020五輪のエンブレムなども手がけた美術家の野老朝雄さんがデザインしたものだ。

 

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ロゴマークに欠けていたふたつの▲ピースを、有巣さんと野老さんの手により完成させた、開校式のパフォーマンス。

 

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経営難に陥った老舗酒蔵を見事な手腕で再生

有巣さんは1984年に、地元でレストラン事業などを行うアリスグループの4代目として生まれた。アリスグループは有巣さんの曽祖父母が高山市内で開いた洋食店からスタートし、その後にウェディングや旅館業などにも進出。現在は、「本陣平野屋花兆庵」と「本陣平野屋別館」の2軒の温泉旅館を中心とした事業を展開する。

「私自身はグループの中興の祖である祖父に特に可愛がってもらい、幼い頃から『将来のグループを背負うのはお前だ』と言われて育ってきました。とはいえ、大学からは東京に出て、卒業後に就職したコンサルティング会社での仕事も楽しく、高山に戻るかどうかは30歳過ぎたら考えればいいと考えていたのです」

そう話す有巣さんにとって転機となったのが、江戸末期から続く老舗酒蔵である舩坂酒造店の経営を、同グループが2009年に引き継ぐ決断をしたことだ。

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江戸時代には幕府が直接支配する直轄領となった飛騨高山。その背景には飛騨の国の豊富な森林資源があったといわれている。

かつては城下町として栄えた飛騨高山は、冷涼な空気と飛騨山脈からの清らかな水に恵まれた酒どころとして古くから知られてきた。伝統的建造物群保存地区に指定される高山市のメインストリート、上一之町から上二之町、上三之町といったエリアには、現在も7軒の老舗酒蔵が残っている。

「舩坂酒造店は上三之町にあり、200年以上の歴史を持つ老舗酒蔵です。旅館業は地域の魅力を集大成したようなビジネスであるというのが私たちの考え。当時、苦境に陥っていた同酒蔵の事業を承継して再生することが、地域の魅力を守ることにつながり、我々の旅館業にも良いシナジーをもたしてくれるだろうという思いがありました」

かくして舩坂酒造店の酒づくりは同グループに引き継がれ、その舵取り役として指名されたのが、東京の大手コンサルティング会社で事業再生や事業承継などの分野で経験を積んでいた有巣さんだった。酒造事業の承継を先導した祖父には、いつかグループを率いて欲しいと熱望していた孫に、グループとしてはゼロからの挑戦となる酒づくりの分野で苦労を重ねることで、経営者として大きく成長して欲しいという願いもあった。

とはいえ、当時の有巣さんはまだ社会人となってようやく2年が過ぎた頃であり、もちろん酒づくりを経験したこともない。「最初は何から手をつけて良いかもわからず、日本酒自体にも正直なところそれほど興味を持てなかった」。有巣さんがそう振り返る当時、酒づくりに対する意識がガラリと変わるきっかけとなったのが、杜氏からすすめられて飲んだ搾りたての生酒だった。

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コロナ前には年間約500万人が訪れたという飛騨高山のメインストリート、上三之町に位置する舩坂酒造店。その時代は200年以上も前の江時代末期まで遡ることができる。

「フレッシュな味わいはこれまでに飲んだどんな日本酒とも違っていました。その深い味わいに、背中に電撃が走るような衝撃を受けたことを今でもよく覚えています。当時25歳だった私がそれほど感動したのだから、この酒ならきっと多くの人を感動させることができるだろうと。そこから生酒のラインナップを増やし、杜氏が自由な発想で酒づくりを行える体制や、若い飲み手の方々が日本酒を楽しめるような仕掛けづくりなど、自分にできることを一つずつ行なっていったのです」

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コロナ禍に見えた、ウイスキー事業という一筋の光

酒蔵の一角を改築し、飛騨牛など地元の食材と日本酒のマリアージュが楽しめるレストランや、自社の日本酒が味わえるテイスティングコーナーをオープン。観光客の取り込みにも成長し、同酒蔵を代表する高級ブランドとなった「四ツ星」の開発を主導するなど、若き経営者の手腕と蔵に息づく元来の酒づくりの実力で、その後の舩坂酒造店の経営状況は右肩上がりに回復。

インバウンドの増加や、岐阜県や高山市との海外PR連携により、アメリカやオーストラリア、香港や台湾、そしてイスラエルといった世界各国に向けた販路の拡大にも成功した。

ちなみに2017年には、同酒蔵のフラッグシップとなる「特別純米 深山菊」が東海地域で初のコーシャ認証を取得。“命のビザ”で知られる杉原千畝氏の生まれ故郷である高山に訪れる、数多くのユダヤ教徒の人たちの需要に応える取り組みも行なってきた。

しかし、2019年後半から世界を襲った新型コロナウィルスのパンデミックにより、全国の多くの酒蔵と同様に舩坂酒造店も大きなダメージを受けた。インバウンドとアウトバウンドを両輪とし、フレッシュであることに価値を置く日本酒を売り物にする舩坂酒造店にとって、コロナ禍で海外からの観光客がゼロになり、国内外での日本酒の流通が滞るという状況は、文字通りの死活問題となったのだ。

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三郎丸蒸留所のブレンダー&マネージャーを務める稲垣さん。開校式では「ウイスキーづくりを極めるという長い旅路を、ともに歩むことができる心強い仲間ができて嬉しく思います」と熱いメッセージを送った。

そうしたタイミングで有巣さんが活路を見出すために訪れたのが、富山県の砺波市にある若鶴酒造だった。

「高山を含む飛騨地方と若鶴酒造さんのある富山県南部は“飛越地域”と呼ばれ、古くからさまざまな交流や結びつきがありました。そうした飛越の交流の中から、当社の日本酒事業や飛騨高山の観光業を立て直す道筋を見つけられるのではないかと考えたのです」

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飛騨高山蒸溜所のマスコットであるウイスキーキャット「チェシャ」。蒸留所の開所祝いとして稲垣さんらのT&T TOYAMAから贈られた飛越交流の象徴だ。

そう話す有巣さんが若鶴酒造で出会ったのが、同酒蔵内に稲垣さんが復活させた三郎丸蒸留所でつくられるジャパニーズウイスキーだった。有巣さんをウイスキーづくりに駆り立てたのは、「曽祖父が仕込んだウイスキーを飲み、曽祖父とつながれたような気がした」という稲垣さんの言葉だ。

「いま多くの観光客で高山の町が賑わい、我々が旅館業や酒づくりを生業とできるのも、先人たちが食や文化、施設などの地域の宝を大切に守り、現在まで受け継いできてくれたからです。稲垣さんの言葉を聞いて、長ければ50年、100年と熟成させることで価値が付加できるウイスキーこそ、我々が未来に継承していく新たな事業にふさわしいのではないかと思いました。そうした思いを稲垣さんに伝え、協力を約束してもらったことで、ウイスキー事業に乗り出すことに決めたのです」

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飛騨高山蒸溜所に導入された「ZEMONⅡ」。稲垣さんが開発し、三郎丸蒸留所に導入されるZEMONを改良。ポットスチルの釜の部分が3つのパーツで構成され、フレキシブルに容量を増やすことができる。

連載記事

西田嘉孝

ウイスキージャーナリスト

ウイスキー専門誌『Whisky Galore』 やPenをはじめとするライフスタイル誌、ウェブメディアなどで執筆。2019年からスタートしたTWSC(東京ウイスキー&スピリッツコンペティション)では審査員も務める。

西田嘉孝

ウイスキージャーナリスト

ウイスキー専門誌『Whisky Galore』 やPenをはじめとするライフスタイル誌、ウェブメディアなどで執筆。2019年からスタートしたTWSC(東京ウイスキー&スピリッツコンペティション)では審査員も務める。