クラファン3700万突破の飛騨高山蒸溜所プロジェクト
創設のきっかけには“曾祖父から受け継いだ原酒”があった

  • 写真:香賀万里和
  • 文:西田嘉孝  
  • 編集:穂上愛

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三郎丸蒸溜所のブレンダー&マネージャーの稲垣貴彦さん。飛騨高山蒸溜所プロジェクトでは総合アドバイザーを務める。

いまや計画中のものも含めると、日本のウイスキー蒸留所は約70カ所にもなる。そのすべてから世界を驚かせるようなウイスキーが生まれるかどうかはわからないが、間違いなくそれぞれの蒸留所にはそれぞれのドラマがあるはずだ。

2022年の春、様々な人たちの思いを乗せて、岐阜県初のウイスキー蒸留所としてスタートを切った飛騨高山蒸溜所プロジェクト。この連載ではそこに関わる人たちにスポットを当てながら、一つのウイスキー蒸留所がどのようにできていくのかを追いかけたい。

飛騨高山でのウイスキーづくり、そのきっかけとなった蒸留所

飛騨山脈に抱かれた岐阜県高山市高根町、山間の村に残る廃校になった小学校を、ウイスキー蒸留所として蘇らそうという飛騨高山蒸溜所プロジェクト。4月に実施された記者発表会では、舞台となる旧高根小学校にプロジェクトメンバーが集い、プロジェクトの実行開始を宣言。蒸留所建設の本格的なスタートがアナウンスされた。

記者発表会の冒頭、プロジェクトの実行者である舩坂酒造店の有巣弘城さんは、「富山でウイスキーづくりを行う稲垣さんから、『曾祖父がつくったウイスキーを通じて、過去の時代と現代の自分の時代がつながったように感じた』という言葉を聞き、自分もウイスキーづくりに挑戦したいと考えた」と話した。

そんな、飛騨高山蒸溜所創設のきっかけとなった北陸のウイスキー蒸留所へ――。連載の第二回目では、富山県砺波市にある若鶴酒造の三郎丸蒸留所を訪ね、飛騨高山蒸溜所プロジェクトのメンバーでもある稲垣貴彦さんにお話を聞いた。

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曾祖父からひ孫へと、受け継がれたウイスキー原酒

飛騨山地から流れ込む庄川の伏流水に恵まれ、古くは加賀百万石の台所を支える穀倉地帯として栄えた富山県砺波市。若鶴酒造があるのは同市の三郎丸地区。三郎丸の「丸」は田畑を意味し、周囲には太郎丸や五郎丸といった地名も残る。

酒造の名となっている「若鶴」という酒が生まれたのは1862年(文久2年)。その酒造権を取得した地元の豪農から、1910年(明治43年)に初代稲垣小太郎が酒造りを継承し、長男の彦太郎(後の二代目稲垣小太郎)とともに経営にあたったという。その後の大正時代には北陸第一の酒造会社へと発展していた若鶴酒造が、ウイスキーなどの蒸留酒事業に乗り出したのは戦後まもない1947年のことだ。

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大正蔵内に展示される古いタンクや酒瓶。

戦中の食糧管理法や富山大空襲などの影響もあり、当時は日本酒業界を深刻な米不足が襲っていた。「そこで私の曾祖父にあたる二代目の稲垣小太郎が、米以外の原料を使った蒸留酒の研究を1947年に開始し、1950年に雑酒の製造免許を取得。当時ウイスキーは雑酒類とされていましたが、1952年に酒税法が改正されてウイスキーと甘味果実酒の製造免許に分かれました。若鶴酒造ではその後の1953年に、初の自社ウイスキーとしてサンシャインウイスキーを発売したのです」と、稲垣さんは説明する。

以来、半世紀以上に渡り、サンシャインウイスキーは現在まで途切れることなく販売され、地元の人々に愛されてきた。しかしウイスキー需要の冷え込みや設備の老朽化などもあり、2000年代には生産規模を大幅に縮小。そうしたタイミングで家業の酒造りを継ぐため、2016年に東京から富山へと戻ったのが、若鶴酒造の5代目にあたる稲垣さんだった。

「当時のウイスキーの仕込みは1週間に1度あるかどうか。しかも僕ですら『危ないから入るな』と言われていた、床が抜け、雨漏りのするような場所で、50年以上前の設備を使って造られていました。当時の原酒の味を見てみると、硫黄臭が強くてこのままでは厳しいとも感じました。一方で、曾祖父が1960年に蒸留した原酒が残っていることを知り、飲んでみると時代を重ねた唯一無二の凄さを感じた。その味に感動すると同時に、時代を超えて先人とつながることができるウイスキーというお酒に、ほかのお酒にはない面白さを感じたのです」

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ウイスキー事業に乗り出した矢先の1953年に、火災で工場の大半を消失。当時も工場の再建を支えたのは、地域の人々からの支援だったという。

日本では“角ハイ”ブームもあり、2008年頃から国内のウイスキー消費が復活。海外の酒類コンペティションなどでも日本のウイスキーが注目を集めるようになり、2014年にはニッカウヰスキー創業者の竹鶴政孝氏とリタ夫人をモデルにしたNHK朝の連続テレビ小説「マッサン」の放送もスタート。稲垣さんが若鶴酒造に戻った2016年は、ジャパニーズウイスキーにそうした強い追い風が吹き始めていた時期でもあった。

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大成功を収めたクラウドファンディング

2016年7月、稲垣さんは曾祖父が残した55年熟成のウイスキーを「三郎丸1960」としてリリース。その年の9月には、老朽化の激しい蒸留所をリノベーションし、北陸初の見学可能なウイスキー蒸留所へと改修するためのクラウドファンディングを実施した。

「当時、国立科学博物館による『3万年前の航海 徹底再現プロジェクト』がクラウドファンディングで大きな支援を集めていました。国立科学博物館の林館長が砺波市の出身で父の家庭教師だったこともあり、父も私もクラウドファンディングには理解があった。みんなに開かれた蒸留所をみんなの支援でつくるというプロジェクトが、成功すれば意義深いものになるのではないかと考えたのです」

とはいえ、まだ国内で稼働するウイスキー蒸留所が10箇所にも満たなかった当時、ましてやクラウドファンディングでの資金集めなど、前例がないことはもちろん無謀にも見える挑戦だった。しかし結果的に、目標額の2000万円を大きく上回る3825万円の支援を獲得。築90年の蒸留棟を大改修するとともに、当時は1基のみが稼働していた焼酎用ステンレス製スチルの改良などを行い、2017年7月に新生・三郎丸蒸留所をオープンさせた。

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昭和初期の木造トラス構造の三郎丸蒸留所。ウイスキー造りを間近で見学できるほか、プロジェクションマッピングで若鶴酒造の歴史やウイスキーの造り方を学ぶことができる。

現在の日本もある意味では“地ウイスキーブーム”と言えるかもしれないが、1980年代にも地ウイスキーブームがあった。80年代の地ウイスキーブームが短期間で終焉したことには、酒税法の改正など様々な背景があるが、そもそも地方の造り手が日本酒や焼酎造りの延長としてウイスキー造りを捉えていたため品質が向上せず、その後の焼酎ブームで地ウイスキーが淘汰されたとも考えられる。

「日本酒の考え方の延長で造っても美味しいウイスキーはできないし、そうした旧来の地ウイスキーのありかたのままでは将来はない。私が戻ってからはそうした考えのもと、これまでのウイスキー造りの工程を見直して一つひとつ改めていきました」

稲垣さんがそう振り返る、三郎丸蒸留所再始動からの歩み。しかし、伝統的にほぼ大手メーカーのみがウイスキー製造を担ってきた日本において、当時はだれもがアクセスできるウイスキー造りに関する情報は圧倒的に少なかった。「とにかく自ら体験することが重要」と、ときには大きな失敗もしながら様々な試行錯誤を繰り返し、稲垣さんは一歩一歩と三郎丸蒸留所でのウイスキー造りをアップデートさせてきた。

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地元である高岡銅器の技術を使ったポットスチルをつくれないかと稲垣さんが考案し、高岡市の梵鐘メーカーである老子製作所とともに開発した「ZEMON」。飛騨高山蒸溜所にも導入される。

2018年にはマッシュタン(糖化槽)を最新鋭のものに更改、2019年には地元の老子製作所などと共同開発した世界初の鋳造製蒸留器「ZEMON(ゼモン)」を導入して大きな注目を集め、さらに2020年には木桶発酵槽を導入。
毎年、蒸留所を進化させるとともに、マニア垂涎のシングルカスクやシングルモルト、ブレンデッドウイスキーなどの製品も立て続けにリリースした。

また、蒸留所の改修やポットスチルの開発以外にも、2018年からは南砺市の島田木材と山崎工務店と協働で、鏡板に地元産のミズナラ材を使った“三四郎樽”の製造を開始。2021年には世界初のジャパニーズウイスキー専門ボトラーズ「T&T TOYAMA」を立ち上げ、クラウドファンディングで4000万円を超える支援を集めるなど、とにかくアクティブに動き続ける。

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オリジナルの三四郎樽。「MIZUNARA」の文字が入る鏡板の部分に、富山県南砺市の斜面に生えるミズナラが使用されている。

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コミュニティの核としてのウイスキー蒸留所

そんな稲垣さんが根底に持つのは、「現在のジャパニーズウイスキー人気をブームで終わらせず、業界として大きく発展させたい」という強い思いだ。

「だからこそ、我々がこれまでのウイスキー造りで得た知見はどんどんオープンにしていきたいと思っていましたし、飛騨高山蒸溜所プロジェクトにも喜んで協力させていただこうと考えたのです」

飛騨高山蒸溜所プロジェクトにおける稲垣さんの役割は総合アドバイザー。すでに3700万円以上の支援金を集め大成功に終わったクラウドファンディングの構成や進め方、蒸留所建設についてのアドバイスなどを行ってきた。さらには三郎丸蒸留所以外では飛騨高山蒸溜所が初導入となる、鋳造製蒸留器「ZEMON」2号機の設計にも稲垣さんが深く関わっている。

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海沿いに立つアイラ島の蒸留所を思わせる貯蔵庫。ふんだんに湧く水を利用し、屋根には高層部の温度上昇を防ぐためのスプリンクラーが設置される。

モルトウイスキー特有の焚き火や燻製のようなピート香は、植物などが堆積してできた泥炭(ピート)を、麦芽の乾燥時に炊き込むことで生まれる。そうしたピート麦芽を使用することは、曾祖父の時代から変わらず継承される、三郎丸蒸留所では伝統のウイスキー造りのエレメント。そんな三郎丸蒸留所で生まれるピーティなウイスキーに対し、飛騨高山蒸溜所ではノンピート麦芽を使ったウイスキー造りが行われる。それも稲垣さんのアドバイスによるものだ。

「蒸留所同士で原酒を交換する習慣のなかった日本では、一つの蒸留所で色々なタイプのウイスキーをつくろうとするケースが多いのですが、最初のノウハウが確立していない段階では器用貧乏になってしまいかねません。ピート麦芽は海外から輸入する必要がありますが、飛騨高山蒸溜所では国産大麦の使用を視野に入れているので、まずはノンピート麦芽でのウイスキー造りに特化するのがいいのではないかと。そうして蒸留所としての個性を磨き上げていけば、飛騨高山の地で素晴らしいウイスキーが生み出せると思っています」

約6年前に稲垣さんがクラウドファンディングで支援を募り、再スタートを切った三郎丸蒸留所は、いまや年間で1万人を超えるゲストを迎える人気の観光スポットとなった。

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ゲストルームの役割も果たす大正蔵。築100年を超える酒蔵を2013年に改修。蒸留所とともに無料で見学することができる(要予約)。

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近隣の人たちも開放される仕込み水。レストランや売店なども充実し、ウイスキーファンのみならず多くの酒好きに足を運ばせる。

「ウイスキービジネスを長く続けるには、地元の人々やウイスキーファンに応援してもらうことはとても大事だと思います。今回のプロジェクトでは、地域や小学校に笑顔を取り戻したいという有巣さんの情熱と人柄に、あれだけ多くの人が賛同してくれたことに大きな意義がある。僕のようにアウトドアが好きな人にとっても、蒸留所がある高根地域はとても魅力的な場所。小学校の上手な活用や周辺の魅力の掘り起こしなども含め、飛騨高山蒸溜所が新たなコミュニティの核となると同時に、ジャパニーズウイスキーの新たな魅力を発信する場所になることを期待しています」と、稲垣さんは話す。

ウイスキー事業の開始から今年で70周年となる三郎丸蒸留所と、これから歴史を紡いでいく飛騨高山蒸溜所。今後はそれぞれの蒸留所を巡るツアーやウイスキー原酒の交換など、ウイスキーを起点とする新たな飛越交流の可能性も大きく広がっていきそうだ。

連載記事

西田嘉孝

ウイスキージャーナリスト

ウイスキー専門誌『Whisky Galore』 やPenをはじめとするライフスタイル誌、ウェブメディアなどで執筆。2019年からスタートしたTWSC(東京ウイスキー&スピリッツコンペティション)では審査員も務める。

西田嘉孝

ウイスキージャーナリスト

ウイスキー専門誌『Whisky Galore』 やPenをはじめとするライフスタイル誌、ウェブメディアなどで執筆。2019年からスタートしたTWSC(東京ウイスキー&スピリッツコンペティション)では審査員も務める。