第94回アカデミー賞で国際長編映画賞を受賞した『ドライブ・マイ・カー』の原作を執筆したのは、日本、いや世界を代表する作家・村上春樹だ。今回は村上春樹の数々のベストセラーに登場する名品、あるいは本人の愛用品について語る。
村上春樹をめぐる名品① メレル「ジャングルモックレザー」

第74回カンヌ国際映画祭で脚本賞など全4冠を獲得、そして第94回アカデミー賞では見事、国際長編映画賞を受賞した映画『ドライブ・マイ・カー』。原作となったのは、村上春樹の短編集『女のいない男たち』(2014)だ。本書に収められ、映画のタイトルになった「ドライブ・マイ・カー」に加えて、別の短編「シェラザード」と「木野」の要素を組み入れたのが映画版のストーリー。その原作を生かしながら、「ワーニャ伯父さん」や「ゴトーを待ちながら」という名作や、9つの言語が交錯する劇中の多言語劇まで描かれ、新たなる村上ワールドを想像する。監督の濱口竜介が大江崇允とともに自ら脚本も手がけているが、傑作と断言できる作品だ。雑誌『BRUTUS』の2021年11月1日号で、この映画を小田原のシネコンで観た村上春樹は「どこまで僕が書いたもので、どこまでが映画の付け加えなのか境目が全然わからなくて。それが面白かった」と感想を述べている。
この映画で印象的に使われている主人公の愛車、赤のサーブ900とともにメインキャストである家福悠介(西島秀俊)、渡利みさき(三浦透子)、高槻耕史(岡田将生)の3人が映った写真がある。映画公開前からよく目にしていたが、主人公家福の履いている靴に見覚えがあった。靴のアッパーが黒の表革なのでモード的なブランドのものかと思っていたが、ソールの形状やディテールなどから、メレルを代表する名品の「ジャングルモック」と見て間違いないだろう。
主人公の家福は俳優で舞台演出家という設定だ。劇中ではいつも上下、インナーまでも黒を基調とした、モダンなスタイルで通している。愛車サーブ900も家福の病気が発覚するまではずっと自分で運転していた。そういう設定ならば、彼のモダンなスタイルに合わせる靴として、革靴でなく、スニーカーを選んだのも頷ける。しかもこの「ジャングルモック」は、先端と踵がまくれ上がった形状のソールを備え、ペダルを操作する際にとても履きやすいシューズで、映画のタイトルや内容ともある意味呼応している。
【続きはこちらから】映画『ドライブ・マイ・カー』で西島秀俊演じる主人公が履いていた、モダンで機能的な靴
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村上春樹をめぐる名品② コードバンのシューズ

小説などではブランド名やモノ、あるいはキーワードが登場人物を語る上で重要な役割をもつことがある。言葉一つひとつを大事にする村上春樹作品ならばなおさらのことだろう。
村上春樹が1980年に発表した『1973年のピンボール』にファッション好き、靴好きには見逃せないキーワードが登場する。「コードヴァン」という言葉だ。
「一九七三年五月、僕は一人その駅を訪れた。犬を見るためだ。そのために僕は髭を剃り、半年振りにネクタイをしめ、新しいコードヴァンの靴をおろした」
この作品は処女作『風の歌を聴け』(79年)に続いて書かれたもので、いわば続編。主人公も登場人物も前作を引き継いでいる。前作で大学生だった「僕」は社会人になり、友人と立ち上げた翻訳会社で働いている。プライベートでは双子の女の子と暮らしていたが、1970年の夏、友人の「鼠」が遊んでいたピンボール台「スペースシップ」を思い出し、そのピンボール台を捜し始める。「コードヴァン」という言葉が出てくるのは作品の冒頭部分。前作に登場した「直子」の故郷を4年振りに訪れる「僕」が履く新しい革靴の素材を「コードヴァン」と書く。実は『1973年のピンボール』に続く『羊をめぐる冒険』(1982年)にも「コードヴァン」が出てくる。
「仕立ての良いグレーのスーツの袖から白いシャツが正確に一・五センチぶんのぞき、微妙な色調のストライプのネクタイはほんの僅かだけ左右不対称になるように注意深く整えられ、黒いコードヴァンの靴はぴかぴかに光っていた」
また、この作品から17年後に発表された『1Q84』では「ヴァ」を「バ」に変えて、何度もこの言葉が採用されている。例えばこんな感じだ。
「彼の黒いコードバンの靴は例によってきれいに磨き上げられ、その光を眩しく反射していた」
主人公の一人、青豆のセキュリティを担当するタマルの履いているのがこの素材の革靴で、自衛隊出身のタマルらしく、いつも靴は磨き上げられており、作品の中では色も黒と描写されている。「コードヴァン」あるいは「コードバン」という言葉は村上春樹の頭に残っている言葉と見ていいだろう。
【続きはこちらから】村上春樹の小説に登場する「コードバン」とはどのような靴か?
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村上春樹をめぐる名品③ マリメッコのクッション

村上春樹の6作目の長編小説、1988年に発表された『ダンス・ダンス・ダンス』は、『風の歌を聴け』(79年)、『1973年のピンボール』(80年)、『羊をめぐる冒険』(82年)と同じ主人公が登場する作品。三部作の続編であると同時に完結編と言われている。
舞台は『羊をめぐる冒険』から4年後の1983年。翻訳会社を辞めてフリーランスのライターを仕事にする「僕」が、『羊をめぐる冒険』にも登場した札幌の「いるかホテル」を訪ねるところから物語はスタートする。さびれたホテルは「ドルフィン・ホテル」と名を変え、26階建ての立派なホテルになっていた。そのホテルで『羊をめぐる冒険』に登場した「羊男」との再会を果たし、ミステリアスなユキ・アメ親子や、ホテルのフロントで働くヨミヨシさんなどと出会い、さまざまな喪失と絶望の世界を通り抜けていく「僕」を描いている。
80年代に書かれた村上作品同様にこの作品にも多くのキーワードが登場するが、気になるブランド名をこの作品で発見した。「マリメッコ」という言葉だ。
「簡単に説明すると、僕のアパートの部屋は四つの部分に分かれている。台所・浴室・居間・寝室、である。どれもかなり狭い。─中略─本棚とレコード棚と小さなステレオ・セット、それだけだ。椅子もないし、机もない。マリメッコの大きなクッションがふたつあって、それをあてて壁にもたれかかるとなかなか気持ちがいい。机が必要な時は押し入れからおりたたみ式の書きもの机を出してくる。僕は五反田君にクッションの使い方を教え、机を置いて、黒ビールとホウレンソウのつまみを出した。そしてもう一度シューベルトのトリオをかけた」
物語が「僕」の旅先の札幌やホノルルなどで進むので、「僕」の自室の記述そのものが少なく、「マリメッコ」というブランドもこれ以外には登場しない。部屋に置くクッションで、大きくて、しかも「マリメッコ」と名を挙げて書いていることから察すると、村上春樹自身がどこかでそういう場面に遭遇したか、あるいは独自のプリント柄を持つ「マリメッコ」のクッションが彼の印象に残っていたのではないだろうか。
【続きはこちらから】村上春樹の小説『ダンス・ダンス・ダンス』の主人公の部屋には、マリメッコのクッションがあった
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村上春樹をめぐる名品④ コム デ ギャルソンのスーツ

村上春樹の著作は、小説以外にもエッセイや紀行文、ノンフィクション、対談集、翻訳本など多岐に渡るが、イラストレーター安西水丸との共著『日出る国の工場』(87年)はその中でも異色の本だ。安西水丸とは『象工場のハッピーエンド』(83年)ですでにコンビを組んでいたが、そのころから二人とも「工場」に興味を持ち、本をつくってみたいと思っていたと『日出る工場』の「あとがき」に安西は書いている。その「あとがき」には86年に京都・伏見にある人体模型の工場の取材から始まったと書かれているが、消しゴムやCDなどいかにも工場らしい工業製品の取材以外にも、「工場としての結婚式場」と題して松戸にある玉姫殿などを取り上げているところが面白い。
ファッション関連の工場として2人が取材したのが、コム デ ギャルソンだ。コム デ ギャルソンは、デザイナーでありオーナーの川久保玲によって1969年に設立されたブランドだ。早くから海外に進出し、82年のパリコレクションでは「黒の衝撃」と呼ばれ、西洋主導のモード界に核心をもたらした。雑誌等のメディアでこれまで何度も特集が組まれているが、川久保玲がインタビューを受けることは稀で、ましてや製作現場である「工場」の取材を受けることもほとんどない。
この取材でも「僕がコム・デの工場を見学したいと言ったとき、マスコミ関係の知人は『そんなことどう考えてもムリですよ』と口を揃えて言った」(以下、引用箇所のブランド表記は原文ママ)と書かれているし、当初、取材は断られたとも書かれている。それでも諦めずに交渉を重ね、ついには都内にある縫製工場の取材が許可される。2人の熱心さが会社側に伝わったのだろう。それ以上に、村上春樹自身が取材するということも大きかったと想像できる。
取材前、村上春樹はまずはこのブランドを試してみようと思ったのだろう。「僕は実際に渋谷西武デパートにあるコム・デ・ギャルソン・オムのブティックで夏もののジャケットとTシャツを買ってみた」とこの本で書いている。買い求めたのは襟にパイピングが施されたジャケット。最初はその斬新さに戸惑いを覚えるが、着慣れると体に馴染んで疲れないことを発見する。その上、最初は新奇と思ったデザインも着続けると気にならなくなったとも書く。
「袖に手をとおすまではコム・デの服というものはかなり格好をつけて無理に着るんだろうという風に考えていたのだが、実際に着用してみると、意外に無理のない服なんだなあと、ここでもわりに感心してしまう。たった一着のジャケットからすべてを推測するのには無理があるだろうが、これに関する限り、ある種の一貫した思想のようなものが感じられる服であると僕は思う」とまで書いている。
この本ではコム デ ギャルソンの服がデザインされる過程や普通の家のような場所で縫われている様子、工場長へのインタビューなどが詳しく書かれ、コム デ ギャルソンが普通の服にブランドの織りネームをつけただけの服ではないことを解き明かす。この章のタイトルが「思想として洋服をつくる人々」。このブランドの真髄を言い当てているような気がする。
【続きはこちらから】村上春樹がかつて自著『日出る国の工場』で書いた、コム デ ギャルソンのこと
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村上春樹をめぐる名品⑤ ポーターのバッグ

2015年1月15日から5月13日まで公開された、村上春樹の特設ウェブサイト「村上さんのところ」。このサイトに寄せられた恋愛、人間関係、音楽や映画、本人に対する素朴な疑問などに村上春樹が答えたものをまとめたのが、同じ年に発行された単行本版『村上さんのところ』(新潮社)だ。世界中から集まった質問は実に3万7465通。そのうち彼が答えた質問は3716問で、メールによる問答は119日間におよび、閲覧数は1億PVに及んだと新潮社のサイトで紹介されている。単行本版にはこの中から473問が選ばれているが、彼が答えた全3716問は「村上さんのところ コンプリート版」として電子版で刊行されている。
さまざまな質問に真摯に応える回答に、本人の人柄や考え方が滲み出ているが、ファッション好きには見逃せない質問もある。「アンダーカバーの服を着たことはありますか?」という質問に対して「彼がデザインしたランニング・ウェア『GYAKUSOU』の製品(メーカーはナイキ)をよく着て走っています」と答えている。しかもデザイナーの高橋盾がランナーであることも知っていて、「ランナーがデザインしているだけあって、ずいぶん着やすい」という。iPodや鍵などを入れられるポケットが付いているのも気に入っているそうだ。ちなみに同書には走る際に聞く音楽も尋ねられているが、ランニングでは「二千曲を詰め込んだiPodをシャッフルにして走っています」と答えている。しかもそのiPodは3台所有しているそうだ。
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コラボバッグも存在する、村上春樹とポーターの関係
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村上春樹をめぐる名品⑥ YAMAGIWAのデスクライト

村上春樹は小説を書くときにどんな筆記具を使っているのか? ファンならずとも気になるところだろう。昔の作家の多くは原稿用紙に万年筆や鉛筆で執筆をしていたが、デジタル時代のいま、さすがにアナログで原稿を書いているわけではなさそうだ。ではどんなツールを使って村上作品は生まれてくるのだろうか。そのヒントを求めて、彼の書斎が再現されている村上春樹ライブラリーを訪れてみた。
村上春樹ライブラリーが彼の母校である早稲田大学にオープンしたのは、昨年の10月。正式名称は「早稲田大学国際文学館」。村上春樹は早稲田大学第一文学部演劇科出身だが、彼が在学中に通った「坪内博士記念演劇博物館」に隣接する4号館をリノベーションして、地上5階、地下1階の建物が完成した。デザインを担当したのは世界的な建築家の隈研吾で、隈作品らしく、うねるようなトンネルとひさしが掛けられた独創的なデザインが目を惹く。このライブラリーは単なる記念館ではなく、村上春樹文学を通して、国際交流や新しい表現活動を行う場所として考えられた施設だ。海外の翻訳版を含めて村上春樹本人から寄贈・寄託された著作から、長年蒐集するレコードやCDまで所蔵されている。かつて経営していたジャズ喫茶「ピーターキャット」に置かれていたピアノがあるカフェまで併設され、「村上ワールド」を存分に体感できる。ちなみに入館は無料だが、HPから事前の予約が必要だ。
彼の書斎が再現されているのが、地下一階のコーナーだ。『BRUTUS』2021年10月15日号には、「自宅書斎と同じ間取りで再現した部屋。床も同じ木を使い、本人も『そっくり』と太鼓判」とある。残念ながら外からの見学のみで入室することはできない。ガラス越しに覗き込むと、テーブルのような白木の幅広のデスクの中央に置かれているのは、アップルのデスクトップPC、iMac。やはり彼はパソコンを使って原稿を書いている。パソコンの脇に置かれたノートの上には、愛用するペーパーメイトのイエローの鉛筆やユニボール・シグノのボールペンも置かれている。スイスの国旗が描かれているのだろうか、赤のマグカップが可愛い。デスクの右側に置かれた照明器具が印象に残った。プロの作家が使っているものだから、機能も素晴らしそうだが、そのデザインが洒落ていた。
【続きはこちらから】村上春樹が小説の執筆時に使用した、YAMAGIWAのデスクライト