未来を夢見て生まれた、3台のスーパーカー【童夢 P-2編】

  • 撮影:谷井功
  • 文:藤原よしお

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1996年のホンダNSXまで、ミッドシップの日本製スーパーカーは夢だった。70年代から脈々と続く、技術とデザインの挑戦を3台のクルマで振り返る。

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【1979年 童夢 P-2】北米での認証取得を目指した、「零」の後継。

1978年に発表されるも日本国内で認証取得ができなかった「童夢 零」の後継として、北米での認証取得を目的に開発されたミッドシップ・スポーツカー。シャシーは零で採用されていたスチール・モノコックから、生産性を考慮した角断面の鋼管スペースフレームに変更。エンジンは引き続き2.8L直6SOHCの日産L28、ギヤボックスはZF製5速MTが搭載されているが、FRP製のボディは北米の安全基準に合わせデザインし直されている。結果、車高は10mm高くなったが「全高1ⅿ以下」というコンセプトは守られた。当時赤と緑の2台がつくられ、2台とも今も童夢本社に保存されている。 エンジン:水冷直列6気筒SOHC 2753cc | 最高出力:145PS/5200rpm 最大トルク:23.0㎏ⅿ/4000rpm | サイズ:全長4235mm×全幅1775mm×全高990mm

第4次中東戦争の勃発に起因する石油ショックは、一夜にして日本の自動車界を一変させた。各社はスポーツカーの開発計画を白紙に戻し、レースの世界からも順次撤退してしまう。しかしこの変革が、新たな発芽のきっかけにもなった。

75年、京都で「童夢」という名前のコンストラクターが産声をあげた。代表を務めるのは65年に「ホンダS600」を改造した「カラス」でレーシングカーづくりの世界に足を踏み入れた、林みのる。資金難でレースから離れていたものの、自動車をつくりたいという衝動を抑えることができなくなった彼が目を向けたのは、公道を走るスポーツカーだった。

世界一車高の低い、スポーツカーをつくれ!

レーシングカーよりも市販車の方が多くの販売と協力が期待できる。そして市販車を販売し成功すれば、その資金でレーシングカーをつくることができるかもしれない……。

 まったく実績も名声もない無名のコンストラクターが、限られた予算の中でつくるスポーツカーを成功に導くため、林は最初に6つのコンセプトを提示した。

1 見た人が誰しも驚くほどのインパクトがあるスタイリング。

2 少ない改造でレーシングカーに変身できる構造とする。

3 機能的に優れた特徴を有する。

4 さまざまなエンジンの搭載が可能なこと。

5 日本でナンバー取得できる市販車であること。

6 何か“世界一”のタイトルを有すること。

そこで彼らは全高980mmの“世界一低いスポーツカー”とすること、そして発表の場を78年のジュネーブ・モーターショーにすることを決意する。30歳そこそこの若者が、いきなり海外モーターショーに出品するなど、前例のない出来事だったが、実はこれこそが林の狙いだった。

78年3月1日に開幕した第48回ジュネーブ・モーターショー。名だたるメイクスが軒を連ねる会場の一角で 「童夢 零」のアンヴェールが行われると、大勢のメディアと観客が押し寄せ、童夢の名は驚きをもって世界中に発信されることとなった。

残念ながら数百台の注文が入ったり、生産権を買い取りたい……などという話が来ることはなかったが、帰国した彼らの前に思いがけない救いの話が舞い込む。当時ブームになったラジコンカーとしての商品化である。しかもその商品が大ヒット。当時の金額にして3億円ものロイヤリティが舞い込むこととなった。もし彼らが希望どおり零の生産化に成功していても、3億円の利益を上げるのは無理だったかもしれない。そういう意味において童夢 零は「1台も販売せずに多大な収益をもたらした、世界唯一のスポーツカー」と言うことができる。

「零」「P-2」をデザインするにあたり、前後を異径タイヤとしてまでウエッジシェイプを強調した林。「リリースした瞬間の反響がどうかは、ものづくりをする人間が一番気にしなくてはならないこと。童夢時代は、どうやって驚かそうか? しか考えていなかった。その気持ちがなければ平均以下のモノしかできない」

俯瞰位置からP-2を見る。レーシングカーづくりをしてきたメンバーの設計らしく、ミッドシップの利点を活かすためドライバーズ・シートが車体のセンターに限りなく近くレイアウトされている。

「違うデザインに挑戦したかったけど、玩具メーカーからの要望で同じスタイルにせざるを得なかった。上手くできているように見えるかもしれないけれど、リアのデザインは破綻している」

世界を震撼させた、和製スーパーカーの秘話。

P-2のボディサイズは全長4235mm、全幅1775mm、全高990mm。「昔から大きいスーパーカーには存在理由を感じない。零もP-2も街に置いたら驚くほど小さいのは気に入っている」

アメリカでの再挑戦と、ル・マン挑戦の誘惑。

当初より日本国内でこのクルマの型式認定を取得することにこだわったが当時の運輸省には相手もされず、挫折。そんな時旧知の友人でカリフォルニアに住むカーデザイナーの金古真彦から、アメリカで自動車の認証を受け、市販してはという提案が寄せられた。

こうして79年に製作されたのが「童夢Pー2」である。玩具メーカーの意向を汲み、零と変わらないスタイルに仕立てられたPー2だが、FMVSS(米国連邦自動車安全基準)に合わせバンパーとヘッドライト位置を高くしたため、テールレンズとホイール以外は共通点がないほどに完全なリ・デザインが行われている。

「いま見ると、零もPー2も幼稚なデザインだけれど、目的は何か? と言われれば、それは“こけおどし”だったからね。その点では目的を達成してる。居住性とか実用性とか一切を捨ててしまわないと、ああいう形にはならない」

実はこの頃の童夢ではこのPー2の開発と並行して「零のレーシングカーをつくってほしい」という玩具メーカーからの要請に林が飛びつき、本格的なグループ6マシンを製作。ル・マン24時間レースに挑戦するまで拡大してしまった。

「てっきりル・マンの計画が始まったからPー2の開発を止めたのだと思っていたけれど、時系列を整理すると実は同時進行でやっている。外注したら金がかかるから、塗装まですべて内製していた。ル・マンカーも設計開始から3カ月半で完成させているが、どうしてそんな事が出来たのかまったく覚えていない」

結果的にル・マンカーに熱中したために北米でのP-2の認証取得は自然消滅してしまう。だが、零とP-2のインパクトによって、自動車メーカーからデザインや開発の仕事が舞い込むようになり童夢の経営も軌道に乗る。念願だったレーシングカーづくりに戻ることができた。「当時の頭の中には、クルマをつくることしかなかったから、チャンスがあれば、後先考えずに飛び込んだ。今でも変わりはないけれど、確たる目的とか意義とか採算性とか言いだしたら、やめた方がよいという答えしか出ない。だから、出来ようが、出来まいが飛び込むしか無い」

レーシングカー製作事業を持続させるのは大博打。林は「ルーレットのラインを10回連続で当てるほどの強運をもっていないとできない」と言う。零とP-2のデザインが引きよせた「大当たり」は、童夢の礎となったのである。


林自身は2015年に社長を引退したが、意志は今も引き継がれている。

零では将来的なレーシングカーへの転用を考えモノコックシャシーを設計。ただし耐久性を考慮しアルミではなくスチール製にしたところ、溶接時に歪み、大変苦労したという。そこでP-2では生産性の高い新設計の鋼管スペースフレームへ変更。インテリアはフルオートエアコン、オーディオシステムのほか、デジタルメーターや手の動きを感知して点灯するウインカーなど、零で採用された画期的な装備が引き継がれている。

国産にこだわる林は当初ロータリーの搭載を想定していたが、供給を受けられず零と同じ日産L28を搭載。開発過程ではトミタオートの依頼でターボキット“疾風”を装着したこともあった。

こちらの記事は、Vマガジン Vol.02「世界に誇る名ヴィンテージ こんな日本車を知っているか?」特集からの抜粋です。気になった方、ぜひチェックしてみてください。アマゾンで購入はこちらから。