ヨシダナギ、気鋭のフォトグラファーの知られざる「本性」

  • 文:ニューズウィーク日本版ウェブ編集部

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ヨシダナギ、気鋭のフォトグラファーの知られざる「本性」

『ヨシダナギの拾われる力』より

少数民族と打ち解けるため、彼らと「同じ格好」になり、ネットやテレビで大きな話題に――。注目を集めるフォトグラファー、ヨシダナギの新しい一面。写真は「好きじゃない」から仕事にしたという彼女の「拾われる力」とは

「アフリカの少数民族」と聞いて、どんなイメージを抱くだろうか。そもそもアフリカ自体が、日本からはまだまだ遠い異国の大地。大自然の中で果敢に生きる動物たちを思い浮かべる人もいるだろうが、貧困、内戦、エイズ......といったネガティブなイメージを抱く人も多いはずだ。

そんなアフリカでちょっとした有名人になっている日本人がいる。彼女はこれまでに世界40カ国以上を訪れ、200余りの少数民族の姿を写真に収めてきた。自分の写真で、ひとりでも多くの人に彼らの格好良さを伝えたい──そう語るのは、今最も注目を集めるフォトグラファー、ヨシダナギだ。

少数民族と打ち解けるために、彼女は彼らと「同じ格好」になる。それがネットやテレビで大きな話題となった。今では全国各地で写真展やトークショーが開催され、入場制限や立ち見も出るほどの人気ぶりだが、なぜ、ヨシダナギはそこまで人々を惹きつけるのか。

著書『ヨシダナギの拾われる力』(CCCメディアハウス)からは、メディアを通して知る姿とは違った、新しいヨシダナギの一面が見えてくる。

写真を続ける理由は「好きじゃないから」

「アフリカの妖精」ことエチオピアの少数民族・スリ族を撮影した初の写真集『SURI COLLECTION』(いろは出版)及び著書『ヨシダ、裸でアフリカをゆく』(扶桑社)で第48回講談社出版文化賞(写真賞)を受賞したほか、雑誌「Pen」が主催する「Pen クリエイター・アワード2017」にも選出されるなど、ヨシダナギの写真と活動は高く評価されている。

だが何よりも、今の彼女を形成している半生と、その中で育まれた独特の考え方とが、多くの人の共感を呼び、また同時に勇気を与えている。

それを端的に表すエピソードが、フォトグラファーになったきっかけだ。ヨシダナギの写真は白飛びしていたり、画質が粗かったり、なかにはピントが合っていないものすらあるが、実は彼女は、写真の勉強をしていない。学校に通っていないというレベルではなく、独学すらほとんどしていない。

なぜなら「写真は好きではないし、カメラに興味もない」からだと言い切る。アフリカ人の格好良さを伝える手段として選んだのが、たまたま写真だった。それがネットで話題になり、テレビに取り上げられ、気づけば「フォトグラファー」という肩書きをもらっていた。


世の中には「好きなことを仕事にしなさい」という風潮があるせいか、「好きなことを仕事にしたいのにできない」と、焦っている人たちをよく見かける。もちろん、自分の嫌いなことを仕事にする必要はないけれど、必ずしも好きなことでなくてもいいと思う。「嫌いではないから、やってみてもいいかな」くらいに思える仕事を選んでみてもいいと思う。(124ページ)


人気フォトグラファーとなった今でも、「写真が好きじゃなくて良かった」と彼女は言う。おかげで下手と叩かれても悔しくなく、モチベーションを維持できる。興味がないものを勉強しても上達しないと分かっているため努力もしないし、いつでもやめられる。それこそが自分の強みなのだと。

『ヨシダナギの拾われる力』より

中卒という経歴に後悔も恥もない

『ヨシダナギの拾われる力』より

中卒という経歴に後悔も恥もない

アフリカ人が大好きで、少数民族のもとを単身で訪ねて写真を撮る。フォトグラファーという職業でありながら、写真もカメラも好きではない──そうした部分だけを聞くと、いかにも「自然体のアーティスト」といった印象を受けるが、「自然体とは対極にいる女」がヨシダナギであるらしい。

写真を上手くなろうと努力しないのも、本人曰く「かなりの意地っ張り」な性格の裏返しだ。自分にできることなど限られている、だからこそ数少ないできること(例えば、何でも食べられること)ではとことん意地を張るが、それ以外のこと(例えば写真)はできないと受け入れて諦める。

確かに「自然体」ではないかもしれないが、それでも、肩の力を抜いていることには違いないだろう。そこには「できるだけ気楽に生きていきたい」という彼女の切実な思いがある。

幼い頃のヨシダナギは、「『人生ゲーム』をひとりで何十回もやるくらい」根暗だったという。どこか周りの子とは違うと本人も感じていたようで、それもあってか、小学4年で引っ越して以来ずっといじめを受けていた。それは、年を追うごとにエスカレートしていったそうだ。

そんなとき、両親が離婚する。父親に引き取られた彼女は、唯一の味方だった母親がいなくなったことで、つらすぎる学校生活を続ける意味も失ってしまう。結局、中学2年の夏以降はほとんど学校に出ることなく、そのまま卒業。もちろん高校にも行っていない。

だが、その決断を後悔したことはなく、中卒という経歴も決して恥じていないと彼女は言う。


 少し前にトークショーに来てくれた方から、「子どもが登校拒否になって悩んでいたが、ナギさんの話を聞いて子どもの気持ちを理解できた。学校に行かなくてもいいと思ってあげられるようになった」という話を聞かせてもらった。
 つらい思いをするだけの学校なんて行く必要はないし、(中略)そんなに苦しい思いをしてまでやるべきことなんて何ひとつない。私がそう伝えることで少しでも楽になる人がいるのであれば、私の過去にもきっと何かしらの意味があるのだろう。(177ページ)


潔く拾われて生きていく

『ヨシダナギの拾われる力』より

潔く拾われて生きていく

本書のタイトルにある「拾われる」も、ヨシダナギの生き方をよく表している。彼女は自分でも言うように、あらゆる場面でうまい具合に拾われて、ここまで生きてきた。

個人のブログに載せただけの写真が、あるときネットメディアに拾われて話題になり、さらにテレビに拾われてフォトグラファーになった。それ以前にも、家に引きこもってネットをしていたことからグラビアアイドルとして拾われ、わずか1カ月ほどでアフリカ資金を貯められたのも行く先々で拾い主が現れたおかげだった。

そうやって誰かの力を借りて生きている、と彼女は堂々と語る。誰かに助けてもらわないと生きていけない。だからこそ拾ってくれる人を必死で探し、そういう人に嫌われないように努力もする。何の取り柄もない自分が生きていくには、それしか方法がないのだ──と。

その一方で、「どう転んだって悪いようにはならない」という楽観主義者でもあり、「31歳まで生きてこられたことが、私にとってはものすごく自信になっている」とも書いている。

大いに矛盾しているように見えて、実は筋が通っている。だからこそ、肩の力を抜きつつも自分を貫き、文字どおり「生きている自信」を得られているのだろう。その潔さは、将来に不安と迷いを抱く多くの人に何らかのヒントを与えてくれるはずだ。


『ヨシダナギの拾われる力』
 ヨシダナギ 著
 CCCメディアハウス