実業家と建築家の夢が結実した、倉敷の名ホテル2選。

実業家と建築家の夢が結実した、倉敷の名ホテル2選。

写真:内藤貞保 文:脇本暁子

江戸時代より綿花産業と運河で繁栄した倉敷。大原孫三郎が撮影したといわれる明治40年代の倉敷川。奥の煙突が倉敷紡績所(現倉敷アイビースクエア)。写真提供 :クラボウ

歴史的建造物を次世代へ残し、倉敷の文化をいまに伝える2つの老舗ホテル。ホテル誕生の背景にはこの地の出身で活躍した、実業家と建築家がいた。

柳ゆれる倉敷川沿いの美観地区にほど近く、この地を象徴し、いまも営まれている2軒のホテルがある。1963年創業の「倉敷国際ホテル」と、74年に開業した「倉敷アイビースクエア」だ。これらは倉敷という町を世界に誇ることができる文化都市へと希求し、生涯をかけた、実業家の大原總一郎と建築家の浦辺鎮太郎によって誕生した。


町づくりを具現化した、建築家・浦辺鎮太郎。

明治21(1888)年に創業した倉敷紡績所は、翌年当時最新鋭の英国製設備を備え、英国式を踏襲した工場を設立。大正12~15(1923〜26)年の撮影。写真提供 : クラボウ

1963年にオープンした倉敷国際ホテルの竣工式。中央がホテルの創設者である実業家、大原總一郎。写真提供:倉敷国際ホテル

大原總一郎を語るには、少し時代を遡りたい。江戸時代は幕府の直轄地、天領として繁栄した倉敷。この地で代々名士だった大原孝四郎はのちのクラボウとなる倉敷紡績所の初代社長として、1889年、当時最先端のイギリス製の紡績機械を備えたレンガ造りの工場を建てる。この紡績業を大きく発展させたのが2代目社長の大原孫三郎だ。彼はまた、友人で画家の児島虎次郎が選び取ったルノワールやモネら名画を収蔵する日本初の私立西洋美術館、大原美術館を開館。倉敷中央病院を建設するなど文化都市の礎を築く。

それらを継承し、町づくりを推進したのが息子の總一郎だ。彼は第2次世界大戦前に旅したドイツの古都ローテンブルクが、戦災で破壊されたものの市民によって歴史的町並みを復興させたことに感銘を受け、倉敷もまた、歴史建築物を残した美しい街にしたいと「倉敷ローテンブルク構想」を提唱。それに応えて具現化していったのが、倉敷出身の建築家・浦辺鎮太郎だった。

竣工当時の倉敷国際ホテルの屋上からの眺め。隣接している大原美術館や大原家の別邸「有隣荘」が見下ろせた。写真提供:倉敷国際ホテル

倉敷川沿いに、なまこ壁の蔵や格子窓の町家が並ぶ倉敷美観地区は1979年に選定。往時の面影をいまに伝える。

「旅人の精神的安息の場所であり、町の思想を読み取ることができる宿を。そして町と調和した一つの文化財である国際ホテルを」と總一郎が構想し、それに応えて浦辺がデザインしたのが倉敷国際ホテルだ。庇とも壁ともいえる緩やかな傾斜をつけたコンクリート打ち放しの外壁に貼り瓦の風貌をもつホテルは、一見異質の素材でありながら、美観地区の蔵屋敷の伝統的町並みと見事に調和し、オープン翌年に日本建築学会賞を受賞している。

また明治時代の赤レンガ造りの倉敷紡績所工場は戦時中に軍需工場に転換されて以降、四半世紀もの間、閉鎖されていたが、74年にホテル、レストランなどの複合文化施設の倉敷アイビースクエアとして再生。スクラップアンドビルドが主流だった70年代に、英国式のこぎり屋根など既存の構造躯体はそのままに、解体したレンガは広場の床に再利用し新たな命を吹き込むコンバージョンという手法は画期的であり、日本における先駆けとなった。130年を超える歴史的建築の記憶のディテールをとどめている空間は市民に愛されている。かつて總一郎はこう述べた。「倉敷は美しく生きようとする意志をもつ町である」。その意志はホテルに確かに息づいている。

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