追悼 ピエール・ブーレーズ 作曲と指揮で「社会」を挑発し続けた、偉大なる音楽家にあらめて注目を!

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    マーラー:交響曲第8番《千人の交響曲》 

    2016年の幕開けは、クラシック音楽ファンには悲しいものとなりました。1月5日、20世紀から21世紀の現代音楽を牽引し続けた作曲家で指揮者であり、理論家、教育者でもあったピエール・ブーレーズが、ドイツのバーデンバーデンで亡くなりました。享年90歳。

    ブーレーズは、1925年フランスのモンブリゾンの生まれ。パリ国立音楽院でオリビエ・メシアンらに学び、50年代前半には早くも音楽家としてヨーロッパで注目を集める存在となりました。『ピアノソナタ第二番』、『ル・マルトー・サン・メートル』、『プリ・スロン・プリ―マラルメの肖像』など衝撃的な作品を数多く作曲。またフランス国立音響音楽研究所(IRCAM)を創設、初代所長となりテクノロジーと音楽の可能性を探求しました。一方で彼は、ベルリン・フィルやウィーン・フィルをはじめ、世界的オーケストラを指揮して多くの名演奏を残しました。マーラーの全交響曲をはじめ、ドビュッシー、ラベル、ストラヴィンスキー、バルトーク、ヴェーベルンの作品など、枚挙にいとまがありません。

    2015年には、生誕90周年が祝われ、新たなCDや自身の作品を収めたCDBOXなどがリリースされ、ブーレーズはまた新しいステージに立つのだろうと思われていました。20世紀の音楽を体現するようなモダンな作品を作曲し、近現代音楽の古典に新たな光を当てる名演奏を残した彼の大きさとひたむきさは特筆すべきであり、稀有の存在だったと言って過言ではありません。作曲と指揮というふたつの世界に精力的に挑戦し続けた彼は、こんな言葉を残しています。 
    「私は、スコアの全体的な軌道を見失うことなく、その詳細を検討しながら、私のスコア読解にできるだけ近い演奏を手に入れようと努める。結局のところ、私には分かっているのだ。指揮をするよりも作曲する方がどれほど困難であるかが・・・・」(ちくま学芸文庫『ブーレーズ作曲家論選』より)

    そして、作品を作り出し、他の作曲家が作り出した作品を指揮し演奏してきたブーレーズは「作品の生成」ということについて、こんなことを語っています。

    「『終った』ということばがどういう意味なのか私にはわかりません。一つの作品を終わったとすることもできますが、同時にそれは終わっていないとすることもできるわけです。作品に終りがあり、その終わりが十全なもの、あるいはそう想定されているものであるという意味では、それは終っています。しかし、同時にその作品は、行程が理想的なものではないから、完結していないということもできるわけです。手直ししたいとか、学校などでやるように、問題を逆から考えてみようとかいうことはいつもあると思うんです。一度終りまで行きついたとしても、作品が進展するわけですから、もう一度始めにもどらなければいけなくなるんです」(『現代思想 特集:Contemporary Music』1985年5月号より)

    ブーレーズのなかでは、作曲と指揮はちょうど無限のヴァリエーションを見せる、魔法のコインの裏表のような関係だったのかもしれません。彼が指揮した演奏を聴いていると、いわゆる手垢のついた、クリシェというような情緒的演奏は、一瞬たりともありません。作曲家の意図を精緻に読み取り、それを理知的に再現する。結果としてほかの指揮者では聞いたことがない、明晰で美しい、初々しい演奏が聴こえてくるのです。アポロ的な夢の芸術とディオニュソス的な陶酔の芸術という、ニーチェが『悲劇の誕生』で展開した美学上の概念がありますが、作曲家としてのブーレーズはどちらかといえばディオニュソス的であり、指揮者としての彼はアポロ的ではないかと、私には思えてきます。どこまでも理知的に、澄明に指揮されるマーラーのシンフォニーなどを聴いていると、特にそう思います。
    今後、ブーレーズの未発表の録音が、続々とリリースされることでしょう。改めて、ピエール・ブーレーズが作り出した音楽に注目してみてはどうでしょうか。(赤坂英人)

    上写真:マーラー:交響曲第8番《千人の交響曲》 シュターツカペレ・ベルリンとの2007年の録音。ブーレーズのけして感情に流されない指揮ぶりが素晴しい。作曲家が書いたスコアを丁寧に読み込んだ理性的で精緻な指揮が、マーラーが意図した音楽のディテールを再現させている。会場はイエス・キリスト教会。

    上写真:マーラー:交響曲第2番《復活》 ウィーン・フィルとの2005年の録音。よくある情緒的な指揮ではない、ブーレーズらしい理知的な指揮法が、他の指揮者の演奏では聞くことができない明晰で美しい音楽を響かせている傑作。