斬新な物語形態によって生まれた史実と幻想が溶解した異界。

『リンカーンとさまよえる霊魂たち』

ジョージ・ソーンダーズ 著 上岡伸雄 訳

斬新な物語形態によって生まれた史実と幻想が溶解した異界。

今村楯夫 アメリカ文学者

時代はいまから150年以上も昔のことだ。アメリカ内部で北部と南部が対立し、南北戦争が1861年に勃発、1865年に終結した史実は周知のことだが、戦争の最中、リンカーン大統領は11歳の息子のウィリーを亡くしている。腸チフスが原因とされる。一方、戦死者は両軍合わせ62万人を越える。
ひとりの少年の死と膨大な兵士の死を数によって、悲しみの深さを比較することはできないが、南北戦争というアメリカの悲劇に巻き込まれた一人ひとりの悲しみは、息子を亡くし悲嘆に暮れるリンカーンの姿を通し、普遍的により鮮明に描かれることとなる。
これまで多数の南北戦争に関する本が書かれ、またリンカーン伝が書かれてきた。だが、この『リンカーンとさまよえる霊魂たち』は、史実とフィクションを問わず、これまでのいずれの歴史書と伝記と小説を凌駕する書であるように思う。
原題“Lincoln in the Bardo”の“Bardo”とはチベット仏教の言葉であり、死者の霊が次の生を受けるまでの49日の「中有」を指す。その間の幽体(霊魂)の仲間にウィリーが加わり、そこにさまざまな霊魂が生者たちの肉体に入り込み、不思議な交歓が展開する。
物語は108の断章から成り立ち、語り手は実在・非在なるものを合わせて40人を越える。ウィリーの霊魂がさまよう墓地を訪れるリンカーンの姿もまた亡霊のごとく浮かびあがる。濃い霧の中、行き先もわからずに、手探りで異界を歩くような読書体験だ。この不思議な幽玄の世界は悲しみに満ちていながら、ときに諧謔により、読者に笑いを誘い、いつしか私も亡霊のひとりとなってさまよっていることに気づく。その不可思議な魔力がこの書を全米ベストセラーに押し上げたのだろう。名訳だ。


『リンカーンとさまよえる霊魂たち』
ジョージ・ソーンダーズ著 上岡伸雄訳 
河出書房新社 
¥3,672(税込)

斬新な物語形態によって生まれた史実と幻想が溶解した異界。

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