スイス時計は高級時計の象徴として日本でも高い人気を誇る。両者の歴史は古く、始まりは幕末に遡る。嚆矢となり当時、日本に伝えられた初のスイス時計がジラール・ペルゴだ。日本と強い絆を結ぶブランドの知られざる歴史をたどる第1回は、その道を拓いた功労者フランソワ・ペルゴの半生について、作家で時計ジャーナリストの松山猛が語る。
海を渡って日本に初めてスイス時計を伝えた、フランソワ・ペルゴの苦難の旅
日本とスイスが通商条約を締結した160年以上前、数あるスイス時計ブランドのなかでもなぜジラール・ペルゴが先陣を切って日本に初上陸したのか。
ジラール・ペルゴは、時計師ジャン=フランソワ・ポットが1791年にスイスのジュネーブに創業した時計工房を源流に、1856年にラ・ショー・ド・フォンで時計師コンスタン・ジラールと妻マリー・ペルゴがふたりの名をブランドに冠して設立した。2世紀以上にわたって高級時計製造を続ける数少ないスイスの名門マニュファクチュールだ。
当時、スイス時計ブランドの多くが海外へ販路拡大を試みるなか、ジラール・ペルゴも例外ではなかった。その新天地として目指したのが極東の日本だったのである。この重責を担ったのがマリーの実弟であり、時計師のフランソワ・ペルゴだ。
1834年、スイスのル・ロックルに生まれたフランソワ・ペルゴは、隣町のラ・ショー・ド・フォンと同じく時計産業の地として栄えた町で、時計販売業を営むアンリ=フランソワ・ペルゴの次男として育てられた。47年に父親が若くしてこの世を去ると、母親が家業を継ぐ中で、フランソワは19歳の時にアメリカ市場開拓のために渡米。ニューヨークでアンリ・ペルゴ社(支社)を設立し、53年から6年間滞在した。その期間には前述の通り、姉マリー・ペルゴとコンスタン・ジラールが結婚し、56年にジラール・ペルゴ社が設立されている。
59年にニューヨークからル・ロックルに戻ったフランソワは、長い海外赴任を終えたばかりにもかかわらず、息つく間もなくアジアに向けて出立する。フランス・マルセイユから出航し、エジプトを陸路で経由して紅海、インド洋を抜けて、シンガポールへ。12個の時計を携えて日本を目指すものの、日本とスイスはまだ国交がなかったため、フランソワの来日は叶わず、1年ほどシンガポールに滞在することになる。
日本行きをさまざまに模索するなかで、既に国交を開いていたフランスの特別保護を受けてパスポートを取得。1860年の12月に、フランソワはようやく横浜の地に降り立った。
---fadeinPager---
“日本限定”の先駆として花開いた、フランソワの才覚
ここで当時の時代背景を少し整理しておこう。ペリー率いる黒船が浦賀に来航した翌年、1854年に日米和親条約が締結され、200年以上続いた日本の鎖国が終わりを告げる。開国から4年後の58年に日米修好通商条約が結ばれ(その後オランダ、ロシア、イギリス、フランスとも同様の条約を締結)、翌59年には貿易港として横浜が開港した。
フランソワがル・ロックルを発ったのが機を同じくすることからも、スイスの時計産業が日本の開港をビジネスチャンスと捉えていたことがうかがえる。1860年に来日したフランソワはスイスとの国交樹立を見据えて準備を整えていたが、日本とスイスの修好通商条約締結は1864年まで待つこととなる。
フランソワの苦難はさらに続く。彼が来日した当時の日本では、1日を24時間に分割した西洋式の時法ではなく、日の出と日没を基準にして昼と夜をそれぞれ6等分して「一刻」とする“不定時法”が用いられていた。昼と夜、また季節によって一刻の長さが違ってくるため、フランソワが輸入した西洋時計は実用的な道具としては機能せず、珍重品の域を超えることはなかった。そんな逆境にも負けず、念願の日瑞修好通商条約が締結された1864年、フランソワはジラール・ペルゴの代理店としてF.ペルゴ&カンパニーを立ち上げたのだった。
開港した横浜を舞台にスイス時計の輸入も本格化していくなか、特にジラール・ペルゴの時計が日本人に受け入れられたのはフランソワの才覚からだ。日本人の好みに合わせた特別仕様を本国に依頼し、そのスタイルは他のブランドも倣ったほど。これを支えたのが、マニュファクチュールとして培ってきたジラール・ペルゴの技術と卓越したウォッチメイキングだったことはいうまでもない。いわば“日本限定”の先駆であり、この伝統が現代に受け継がれていることも感慨深い。
やがてフランソワの努力も報われる時がやってくる。1873年の定時法発布だ。明治維新後の激動の時代を迎え、加速度を上げて変わりゆく社会とともに時計は生活必需品になる。だがようやく事業が軌道に乗ったのもつかの間、フランソワは成功を目にすることはなかった。盗難や火事などの不幸が続き、その心労から脳卒中で倒れ、1877年に43歳の若さでこの世を去ったのだ。
---fadeinPager---
スイスと日本との絆、そしてフランソワの志を現代に受け継ぐ
日本にジラール・ペルゴをもたらしたフランソワの墓はいまも横浜の外国人墓地にあり、命日の12月18日には毎年多くの時計愛好家が花をたむける。この歴史を明らかにし、ジラール・ペルゴと日本の絆を広く一般に知らしめるために貢献したひとりが松山猛だ。
松山は、ザ・フォーク・クルセダーズの「帰って来たヨッパライ」や「イムジン河」、サディスティック・ミカ・バンドの代表曲「タイムマシンにおねがい」の作詞を手掛けたほか、アグネス・チャンや竹内まりやに詞を提供するなど音楽家としての活動とともに、雑誌『ポパイ』や『ブルータス』などの編集者としても活躍。1980年代からスイスでの時計取材を始めた数少ない日本人のひとりであり、日本の時計ジャーナリストの先駆けと言える存在だ。時計の歴史と文化を探求する松山がジラール・ペルゴとフランソワに興味を抱いたきっかけはなんだったのだろう。
「僕は1981年に初めてスイスに行って時計の世界に本格的に触れ、80年代末から世界的な時計見本市であるバーゼルフェアの取材を始めました。そこでジラール・ペルゴのルイジ・マカルーソ社長とも知り合い、親交を重ねていったのです」
松山はジラール・ペルゴへの知見を深めるなかで、同社が日本に初めて伝えられたスイス時計であり、それを伝来した創業一族のフランソワの墓が外国人墓地にあるらしいという情報を得る。当時東京から横浜に居を移していた松山も、時計と縁のある地元の埋もれた歴史に俄然、好奇心と興味が湧いた。
「世界における時計の歴史を調べると、それまでイギリスやフランスが中心だったのに対し、ヨーロッパの小国であるスイスが産業革命的に時計に注力し、国を代表するビジネスにしていく。その発展史を調べていくとなかなかダイナミックで、輸入時計の始まりが幕末の横浜を舞台に展開していたというのも面白くてね」
調べていくうち、史実の中の人物だったフランソワの人間像がリアルに浮かび上がってきたという。
「当時の日本は西洋の太陽暦とは違っていたし、慣れない異国での暮らしに加えて、参入する時計ブランドも増えてきて苦労も多かったのでしょうね。面白いのは、金の時計を売りたいんだけど、日本人は渋好みで銀時計ばかり欲しがるっていう愚痴を本国に手紙で送っているんですよ」
そう言って笑う松山だが、フランソワの人間味を知るにつれ、横浜に移り住んだ自分を重ね合わせたのではないだろうか。それを尋ねると「たまたまね。でもどこか彼に導かれるように、僕も横浜に来たのかもしれないね」
---fadeinPager---
松山猛とルイジ・マカルーソ、ふたりの想いが生んだフランソワ・ペルゴ記念モデル
フランソワの功績に注目したもうひとりのキーパーソンが前述のルイジ・マカルーソだ。イタリア最大の時計代理店トラデマ・イタリアのCEOであった彼は、1992年にジラール・ペルゴのオーナーとなり、その舵を取る。機械式に注力し、クオーツ台頭から低迷していたブランドを立て直した中興の祖といっていいいだろう。自身は建築学を学び、レーシングドライバーというユニークなキャリアを持ち、趣味の世界でも深い造詣があった。同じ趣味人として松山も意気投合したのだろう。
「70年代にはラリーでチャンピオンを取り、建築家の視点やイタリア人らしい審美眼からメカニズムとデザインに精通していました。洗練されたスタイルや自社ムーブメントを手掛け、外からの影響を受けず、自分たちのつくりたいものをつくっていったところがさすがだなと思いましたね」
そしてフランソワがいまも横浜に眠っていることをマカルーソに伝え、ぜひいつか訪ねてほしいと松山は話したのだった。
「2004年にマカルーソさんが横浜を訪れ、一緒に墓参しました。その後に横浜開港資料館でずいぶん長い時間を話したことを覚えています。神妙な感じで、自分のブランドが日本とこんなに深く関わっていたのかと驚いたのだと思います。そんな雰囲気が伝わりましたね。彼にとってフランソワは創業家であり、日本との絆を結んだ敬意とともにこれまでの空白を埋めたいという気持ちもあったのでしょう」
そしてフランソワを想うふたりの情熱はひとつの時計へと昇華する。
「さらにいまでも忘れられないのが、2006年にイタリアのトリノでマカルーソさんと再会した時のこと。ディナーの席で彼がこれをどうぞといって1本の時計を差し出したのです。それは、フランソワ・ペルゴにトリビュートしたワールドタイマーのWW.TCで、本来はTOKYOと表示される都市名が赤くYOKOHAMAになっていました。しかもシリアルナンバーはなんと0だったのです」
これは「宝モノ」と大切にする腕時計は、松山とマカルーソの友情の証しであると同時に、時空を超えて横浜で孤軍奮闘したフランソワを結んだ。そしてこの発表を兼ねた墓参イベントでは、ジラール・ペルゴを取り扱う地元元町の時計専門店「コモンタイム」が有志を募り、荒れていた墓を清掃整備し、以降12月の命日には同店が主催し、20年近く墓参が続けられている。その中心的存在が松山であることはいうまでもない。かくして日本とスイス時計、そしてジラール・ペルゴとの時は再び刻み始めたのだ。


こうして振り返ってみると、ジラール・ペルゴを通して日本に時計の素晴らしさを伝えたフランソワと80年代初頭から機械式時計の魅力を日本に広めた松山の気概は共鳴するように感じる。その後世に伝えたい思いとはなんだろうか。
「機械式時計は人間が生んだ技術のなかでもトップクラスだと思うんですよ。それを70年代末から80年代に差し掛かる頃、人類はやすやすと捨てそうになった。この技術がなくなったらまずいなと僕は思ったんだけど、それはマカルーソさんも同じ思いだったのでしょう。それがいまではここまで普及した。でも一方で、時計に込められた物語を愛してくれる人をもっと増やさないとダメかなっていう気がします。投資の対象や一過性の流行ではなく。ジラール・ペルゴにしてもフランソワやマカルーソさんといった人たちが関わってきた、こんな素晴らしいものなんだから」
そうした人物とこれまで時計を一緒に楽しませてもらって本当によかった、と松山は嬉しそうに語った。


---fadeinPager---
横浜の港を思わせる、ターコイズブルーの日本限定モデルが登場
日本とも深い縁を持つジラール・ペルゴは、日本限定「ロレアート ターコイズブルー」を発表した。八角形とラウンドを組み合わせたケースとブレスレット一体型のデザインで人気の「ロレアート」に、ターコイズブルーのエナメル文字盤を採用する。この美しいエナメルダイヤルは、ジラール・ペルゴを傘下にもつソーウインドの一員であり、ル・ロックルに拠点を置く世界最高峰のエナメル文字盤専門工房であるドンツェ・カドランが手掛けたもの。
シルバー製の文字盤プレートにあらかじめ放射状に広がるギョーシェ彫りのモチーフを施し、表面を高温焼成によるグラン・フー エナメルで仕上げる。鮮やかなエナメルでギョーシェ彫りのモチーフがより際立つ、ブランドでも限られたコレクションにしか採用されないエクスクルーシブな装飾技法だ。
搭載する自社ムーブメント「Cal.GP01800-」はピンクゴールド製ローターを搭載し、厚さ3.97㎜の薄さを誇る。シースルーバックからはペルラージュ装飾の地板やコートドジュネーブ装飾のブリッジなど美しい装飾が楽しめる。
この日本限定モデルがいち早く入荷するのが「ジラール・ペルゴ ブティック 大阪」だ。いまや関西随一の高級ウォッチタウンとなった心斎橋に、日本初のジラール・ペルゴのブティックとして昨春オープン。店内にはブティック限定や新作をはじめ、希少なモデルが並び、時計ばかりでなく、ブランドや日本との強い絆の歴史について紹介されているのも興味深い。ぜひ足を運んでみてほしい。

柴田 充(時計ジャーナリスト)
1962年、東京都生まれ。自動車メーカー広告制作会社でコピーライターを経て、フリーランスに。時計、ファッション、クルマ、デザインなどのジャンルを中心に、現在は広告制作や編集ほか、時計専門誌やメンズライフスタイル誌、デジタルマガジンなどで執筆中。
ジラール・ペルゴ / ソーウインド ジャパン
TEL:03-5211-1791
www.girard-perregaux.com
