アメリカ具象絵画を代表する画家、アンドリュー・ワイエス(1917〜2009年)の没後日本初の回顧展が、東京都美術館にて開かれている。ワイエスの作品にたびたび登場する窓や扉といった「境界」のモチーフに着目し、約70年の創作活動をひも解く本展。その見どころを展示作品とともに紹介したい。
父の死が刻んだ、ワイエス芸術の原風景とは?
少年時代から91歳にて没するまで、生まれ故郷のペンシルヴェニア州と、夏に過ごす家のあったメイン州の2つの地域を描き続けたワイエス。正規の学校教育を受けず、挿絵画家であった父の手ほどきを受けて画家の道を志し、1937年の個展では全作品が完売するなどして頭角を現す。しかし28歳の時に父の事故死に大きな衝撃を受けると、「世の無常」にも通じる死生観を底流にたたえた、独自の絵画世界を深めていった。
この父を亡くした頃に描かれた『自画像』に目を向けたい。ワイエスは日々、自宅近くを散策しながらスケッチを重ねるという制作手法を生涯にわたって続けたが、本作においてもスケッチブックを脇に抱え、やや険しい表情をしながら野原のなかを一人歩く自らの姿を描いている。また『マザー・アーチの教会』は、幼少期から通った教会を題材としている。ひび割れた天井を切り取るような構図も独創的だが、窓からは希望を暗示させるような白い鳩が舞い込んでいる。
ワイエスが見つめ続けた、クリスティーナという存在
ワイエスが30年間にわたり描き続けたのが、メイン州のオルソン・ハウスと、そこに暮らすクリスティーナとアルヴァロのオルソン姉弟だ。『クリスティーナ・オルソン』は、進行性の病により脚が不自由でありながら、強い自立心を持つクリスティーナを描いた一枚。台所での仕事を終えた彼女が、陽の光のあふれる屋外と暗い室内の境にある踏み段へ、腰を下ろす様子が捉えられている。
視線を目の前ではなく遠くへ向けるその姿は、一見するとリラックスしているように思える。しかし静まり返った室内とは対照的に、外から吹き込む風が髪をなびかせていて、内と外という境界が連続しながら揺らぐさまを表している。ワイエス自身、この時の彼女について「傷ついたカモメを思い起こさせた」と語っているが、200点以上にも及ぶクリスティーナの肖像のなかでも、とりわけ象徴的な作品といえる。---fadeinPager---
静かな室内に満ちる、不在の存在感
1967年から68年にかけての冬、オルソン姉弟が相次いで亡くなるものの、ワイエスは翌年までオルソンハウスを描く。『オルソン家の終焉』は、姉弟が亡くなって2度目の夏に制作された作品で、3階建ての母屋の2階から煙突の立つ台所側を望んでいる。同時に展示された水彩の習作とは微妙に視点が異なり、鉛筆素描に見られる窓枠が取り払われているが、そこには死によって隔てられてもなお、姉弟と交流している感覚を大切にしようとした画家の意図が伺える。
『灯台』は、メイン州サザン・アイランドにワイエスが所収していた小さな島の灯台を主題としている。ドアの手前には妻ベッツィの愛犬が行儀良く座り、人気のない空間に親密な気配を与えている。また『乗船の一行』もメイン州の海岸近くにある家の室内を描いたもので、窓の向こうにはヨットの帆が見える。「テーブルを囲んでいた人々は、もうヨットに乗り込んだのだろうか?」と想像を巡らせながら見ると、さまざまな物語性も帯びてくる。
抽象画のような『薄氷』が意味するもの
ワイエスにとって窓といった境界は、単なる分断を意味するものではなく、内と外や生と死をつなぎ合わせる象徴として意識されていた。『ゼラニウム』は、オルソン・ハウスの台所の窓を真正面から描いた作品。薄暗い室内にはクリスティーナと赤いゼラニウムが映るが、奥にもさらに窓があり、差し込む光が彼女の髪を柔らかく照らしている。閉ざされたように見える空間の奥に、なお外の世界との連続性が存在していることを感じさせる。
最後に「これもワイエスなのか」と思わされるほど異色の作品を取り上げたい。抽象画にも見える『薄氷』は、凍りついた水路を真上の視点から描いたものだ。氷という境界の下には枯れ葉が沈み、死の世界を表すようだが、よく目を凝らすと気泡が浮かび、生命の気配があることが示されている。初期から晩年までの約100点の作品を通して、ワイエス芸術の核心に触れられる本展は、日本では貴重な機会。静謐な画面の奥に広がる豊かな感情を、ぜひ会場で体感してほしい。
『東京都美術館100周年記念 アンドリュー・ワイエス展』
開催期間:開催中〜2026年7月5日(日)
開催場所:東京都美術館 企画展示室
東京都台東区上野公園8-36
開室時間:9時30分〜17時30分 ※金曜日は20時まで(入室は閉室の30分前まで)
休室日:月 ※6/29(月)は開室
観覧料:一般 ¥2,300 他
https://wyeth2026.jp/









