連載【複雑時計解体新書】Vol.03
ブレゲ「ブレゲ エクスペリメンタル 1」
腕時計は時を知るためだけの道具ではない──。機械式時計の醍醐味とも言えるのが、各ブランドの技術力と叡智を結集させた複雑機構(コンプリケーション)だ。さまざまな超絶技巧に目を奪われる一方で、腕時計のメカニズムは正直よくワカラナイ……。そんな複雑機構の疑問を、話題の新作とともに、GPHG(ジュネーブ時計グランプリ)の会員でもある時計ジャーナリストの並木浩一が紐解く。
ブレゲの新コレクション「エクスペリメンタル 1」は、マニュファクチュールの研究開発部門の革新的成果だ。外見的には「マリーン」の造形言語を用い、ブレゲゴールドで構成されるこの時計が備えたのは、画期的な“マグネティック脱進機”と秒あたり20振動の高速振動数、そしてトゥールビヨン機構、コンスタント・フォース。ブレゲ・シールの認証が与えられ、刻印されている。
ブレゲ創業250年である2025年の最後を飾ったのは、驚くべき複雑時計だった。その時計「エクスペリメンタル 1」は、未知の“マグネティック脱進機”を装備し、エネルギーの供給と消費を保って精度を維持するコンスタント・フォースを実現、しかもトゥールビヨンなのである。日差±1秒という精度は、まさに驚異的だ。
創業者アブラアン-ルイ・ブレゲが生涯で取得した特許の中でも、1798年の“コンスタント・フォース”と1801年の”トゥールビヨン”は、時計史に決定的影響を与えたものだ。「エクスペリメンタル 1」は、それから2世紀を経て、ブレゲが起点となった発明をさらに先へと進め、マグネティック脱進機が加わることで新時代を開いたのである。
精度追求を時計設計上の課題として捉えると、少なくとも三つの課題が絡み合っている。第1はテンプの振幅の安定である。パワーリザーブの減少に伴いトルクが低下すれば、振幅の安定は難しくなる。第2は重力の影響。第3は衝撃耐性である。創業250年目のブレゲは、これら3要素に対する解決策を、マグネティック脱進機とコンスタント・フォースを備えた20振動/秒(10Hz)の高速振動テンプ、かつトゥールビヨンという一体的な構造で解決することを試みた。
マグネティック脱進機は、従来のスイスレバー脱進機の仕組みを大革新した。脱進機は通常、接触することでゼンマイから伝わるガンギ車の回転運動をアンクルの往復運動に変換してテンプを振動させ、時計のリズムを生み出す。一秒に何回も推進しては止める一連の動きのうち、マグネティック脱進機は推進を接触ではなく、磁力の反発力で実現したのである。外部から伝わる衝撃を極小化し、部品の接触を低減するため耐久性も飛躍的に向上、高速振動を可能にした。この画期的なマグネティック脱進機の仕組みを、さらにトゥールビヨンと一体化したのである。
マグネティック脱進機のキーとなる部品がガンギ車である。ガンギ車は、漢字で書けば「雁木車」で、雁の群れが飛ぶV字形の飛型のような形状を、歯車の歯の連続に見立てたと言われる。一方で、この脱進機のガンギ車は、ミシンのホビンの両端のようなスムースな2枚の円盤だ。その2枚に、止める機能だけの部品である「雁木のような歯車=停止車」が挟まれている。

動力を受け取るアンクルには永久磁石が上下を両極に爪石代わりに取り付けられており、「上下のガンギ車」は同じ極をアンクルに向けている。そうして磁力の反発を起こさせてガンギ車は非接触で進み、真ん中の停止車とアンクルが接触して止まる。接触は半分になり、耐衝撃性、耐久性をキープしながらの、20振動の高速振動を現実的にする。
同時にこのシステムにより、事実上のコンスタントフォースが実現する。アンクルを押す力は磁石による非接触の反発力なので、歯車が伝えるトルクの強弱に依存しないのである。
その、コンスタントフォースを備えた毎秒20振動の高速振動するマグネティック脱進機を、ブレゲはトゥールビヨン化した。画期的な発明とその進化、さらに新たな画期的発明を、何重にも重ねたのである。
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創業者アブラアン-ルイ・ブレゲの偉業を現代的に昇華
「エクスペリメンタル 1」のデザインには、いくつかの基本要素が輻輳(ふくそう)し、構築されている。それらは独自の調和を保ちながら相互に呼応し、全体として完結した。まず「マリーン」コレクションの歴史を継承したデザインコード。スポーティなケース、ロウ付けラグ、初採用となるインターチェンジャブルのラバーストラップ、そして視認性を最優先する全面夜光表示。これらが現行ブレゲの実験的モデルである「エクスペリメンタル 1」にふさわしい性格を形成している。
さらに歴史的文脈も見逃せない。本作がブレゲの歴史的な懐中時計「No. 3448」(写真)のコードを継承していることは、ダイヤル表示やムーブメントの構造に読み取れる。
その源流を辿れば、アブラアン-ルイ・ブレゲが革命期のパリで製作を進めたマリン・クロノメーター「No.104」に至る。当時としては珍しいアラビア数字を用いた同作は、航海における正確な計時を追求した実用機であった。本作にアラビア数字を採用した背景には、同時代のフランスでただ一人アブラアン-ルイ・ブレゲが任命された最高の栄誉=王立海軍時計師としての伝統が重層的に息づいている。
歴史的な懐中時計やマリン・クロノメーターだけでなく、腕時計である「エクスペリメンタル 1」には、1997年にアブラアン-ルイ・ブレゲ生誕250周年を記念して製作された世界300本の限定モデル「Ref. 1747」の面影も見られる。時針と短針を分離したレギュレーター・スタイルの表示をもつ同モデルは、メゾンの近年史においても初の現代的レギュレーター腕時計だった。「エクスペリメンタル 1」はその正当な後継と位置づけられる。
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ブレゲの美学を凝縮した、技術とデザイン
技術とデザインが融合する領域においても「エクスペリメンタル 1」は、独自の均衡点を確立している。
ダイヤルは昼夜を問わない視認性を得る全面夜光仕上げが採用され、現代的スポーツウォッチとしての道具性と、観測機器としての伝統が自然に結びつけられた。秒針レイアウトや目盛りの配置には、往年の計時機器にも共通する合理性が宿る。
ムーブメントの構成では、マグネティック脱進機とトゥールビヨンという2つの超越的な機構が存在するにもかかわらず、全体の高さやレイアウトは極めて整然としている。トゥールビヨンキャリッジは高振動の負荷に耐えるため軽量化が徹底され、ブリッジ構造と素材選択にも新しいアプローチが導入された。ブレゲ自社が定める「ブレゲ・シール」認証の対象であり、製造から最終組立、調整、検査にいたる各段階で厳格な基準を通過している。
ケース素材のブレゲゴールドは、ブレゲが独自に開発した18Kゴールド合金で、耐腐食性と低刺激性を併せ持つ。成形性にも優れ、複雑な面構成やポリッシュとサテンを併置する繊細な仕上げに適応するマテリアルだ。マリーン譲りの力強いケースとベゼル形状、ラグ一体のスポーティな構造は、この素材の質感を最大限に引き出している。またラバーストラップはインターチェンジャブル機構を採用し、時代を代表するこの最先端モデルに、実用時計としての日常性も強化しているのである。
「エクスペリメンタル 1」は、実験的モデルである一方で、単独の製品としても完成度が極めて高い。導入された技術は、今後のブレゲの複雑機構開発への期待を無限に高める。
マグネティック脱進機は、接触負荷を限定しながら高振動を実現できることから、従来の機械式時計では望めなかった水準で、耐久性と安定性の向上に直結する。振動数を上げれば消耗や負荷も増大し、持続性が課題となるという矛盾を緩和し、次段階の高精度化への扉を開くのである。しかも、この高速振動でありながら、約72時間のパワーリザーブを確保している。
トゥールビヨンとの組み合わせも、ブレゲの歴史的文脈において象徴的意味を持つ。アブラアン-ルイ・ブレゲが重力誤差に対処するため発明したトゥールビヨンが、2世紀以上を経てマグネティック脱進機と統合されたという事実。これは単なる技術更新ではなく、精度への影響に対峙する根本原理の再解釈といっていい。単体のトゥールビヨンが姿勢差補正のための「回転する調速機」であったとすれば、このモデルでは高振動・非接触インパルス・軽量キャリッジなど複数の要素が統合され、総合的なシステムとして再編成されている。
「エクスペリメンタル 1」は、伝統的構造の延長ではなく、機械式時計が今後どこへ進み得るかを示す一つの回答である。それは複雑機構を集積させただけではなく、ウォッチメイキングの科学的営みを続けた250年目のメゾンによる、奇跡的な結実を意味するのである。

並木浩一(桐蔭横浜大学教授/時計ジャーナリスト)
1961年、神奈川県生まれ。1990年代より、バーゼルワールドやジュネーブサロンをはじめ、国内外で時計の取材を続ける。雑誌編集長や編集委員など歴任し、2012年より桐蔭横浜大学の教授に。ギャラクシー賞選奨委員、GPHG(ジュネーブ時計グランプリ)アカデミー会員。著書に『ロレックスが買えない。』など多数。
ブレゲ
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