Pen特別企画、コンテンポラリーアートとキャデラック【Vol.4】キース・ヘリング(前編)

  • 監修:山本浩貴
  • 文:サトータケシ
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1987年に発表されたキャデラック・アランテ。イタリアのカロッツェリアであるピニンファリーナとのコラボレーションという、グローバルな開発手法が話題となった。

2022年、アメリカが世界に誇るラグジュアリー自動車ブランド、キャデラックが120周年を迎えた。革新的なデザインと技術、そしてその挑戦の近代史をコンテンポラリーアートとともに振り返り、未来への試みも紹介。全6回の連載4回目は、1980年代に彗星のように現れたストリートアーティスト、キース・ヘリングを取り上げる。31歳で亡くなるという短い人生は、同時にアーティストとして濃密な時間でもあった。

ストリート出身の早逝のアーティスト

キース・ヘリングがニューヨークの地下鉄駅構内でサブウェイ・ドローイングの活動を始めたのが80年。そして10年後の90年、31歳の若さでエイズによる合併症で亡くなる。

美術史と文化研究を専門とする山本浩貴さんは「アーティストとしての活動期間が非常に短いことと、ストリートアートの出身であることがヘリングの特徴です」と語る。

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山本浩貴

千葉県生まれ。一橋大学卒業後、ロンドン芸術大学にて修士号・博士号取得。2013年から18年にロンドン芸術大学TrAIN 研究センター博士研究員。韓国・光州のアジアカルチャーセンター研究員、香港理工大学ポストドクトラル・フェロー、東京藝術大学大学院国際芸術創造研究科助教を経て、2021年より金沢美術工芸大学美術工芸学部美術科芸術学専攻講師。

そして山本さんは、エイズであることをカミングアウトし、社会問題にも積極的にコミットした、キース・ヘリングというアーティストの本質が伝わる作品を選んでくれた。まず紹介するのは、『Silence=Death』と、『Ignorance=Fear/Silence=Death』という、いずれも1989年の作品だ。

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エイズ患者の権利拡大に取り組む

「現代のコロナの場合は、みんなに関わる問題という理由で、ワクチンを急いで開発しました。けれども1980年代のエイズは、同性愛者の特殊な病気という認識で、政府もきちんとした対応をとらなかった。そうした状況で、ヘリングはACT UPという団体とともに、エイズ患者の権利拡大に取り組みました。この作品のタイトルは、声を上げないと死んでしまうぞという意味で、ACT UPとともにこういう標語を掲げて運動していたんです」

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『Silence=Death』(1989年)Keith Haring artwork © Keith Haring Foundation

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『Ignorance=Fear/Silence=Death』(1989年)Keith Haring artwork © Keith Haring Foundation

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キース・ヘリングは、幅広く社会問題にコミットした

どちらの作品にも使われる、ピンク色の三角形のモチーフに山本さんは着目した。

「ナチスはユダヤ人の大量虐殺で知られていますが、実は同性愛者や障害者など、彼らが社会的に有用ではないと考えた人々も差別しました。強制収容所では、ゲイの人々が着るものにピンク色の逆三角形のバッジを縫い付けたんです。ヘリングは、そのバッジをひっくり返したピンクの三角形を自身の作品に描いたわけです」

山本さんによれば、ヘリングの社会問題に対する働きかけは、エイズやLGBTだけにとどまらなかったという。

「南アフリカのアパルトヘイト政策に反対して、『FREE SOUTH AFRICA』という作品を発表しています。他にも、小児病院や孤児院などに作品を寄贈するなど、広く政治や社会にコミットするアーティストだったと言えるでしょう」

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『Radiant Baby』(1990年)。晩年のヘリングが好んで描いた光り輝く赤ん坊のモチーフ。Keith Haring artwork © Keith Haring Foundation

 

上記2作品と少し毛色が違うのが、ここに紹介する『Radiant Baby』に代表されるアイコンと呼ばれるシリーズだ。犬や円盤をモチーフに、シンプルで明快なラインで描かれた作品は、強く印象に残る。

「アンディ・ウォーホルやジャン=ミシェル・バスキアが、特定の美術大学のエリートたちによるアカデミックなアートだけが認められるという風潮を覆しました。ヘリングもそうした系譜で、かつての狭い美術業界の中だったら認知されないような、ストリートやパブリックな空間での活動を行ったアーティストです」

従来のハイカルチャーとストリートカルチャーの境界がなくなるというこの流れは1990年代のグローバル化でさらに加速し、現代のバンクシーなどにつながったと言えるだろう。

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キース・ヘリング(1958〜90年)

1958年にアメリカのペンシルベニア州に生まれる。78年にニューヨークのスクール・オブ・ビジュアル・アーツに入学。80年より、ニューヨークの地下鉄駅構内の使われていない広告板にチョークで描くサブウェイ・ドローイングの活動を開始し、評判となる。以後、国際的な展示会に出展するほか、社会貢献活動にも力を入れ、87年には「アクト・アゲインスト・エイズ」に作品を出品した。88年にエイズの診断を受けると、翌89年にキース・ヘリング財団を立ち上げ、エイズ患者の救済やエイズの予防に携わった。90年、グリニッジ・ヴィレッジのアパートで亡くなった。

©️Allan Tannenbaum/Polaris/amanaimages

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1980年代、キャデラックも変革した

ヘリングやウォーホル、バスキアなどの活躍で1980年代のアメリカのアート・シーンが新陳代謝したのと同様に、この時代のキャデラックも多様化に取り組んだ。

たとえば1987年に登場したキャデラック・アランテは、イタリアのカロッツェリア(自動車デザイン工房)であるピニンファリーナのデザインを纏った。アメリカとヨーロッパの自動車文化が、クロスオーバーしたのだ。

 

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アメリカン・ラグジュアリーの雄であるキャデラックと、ヨーロッパの高級車やスポーツカーを手がけてきたピニンファリーナが手を組んで開発したキャデラック・アランテは、自動車業界のグローバル化を先取りしたとも言えるだろう。

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1985年のキャデラック・セビル。ダウンサイジングとFF(前輪駆動)化で、贅沢さと効率を両立するというチャレンジングなモデルだった。

またこの時代は、1970年代のオイルショックの影響も少なからず受けている。1985年に登場した6世代目のキャデラック・ドゥビルは、ボディサイズもエンジン排気量もダウンサイジングし、後輪駆動から前輪駆動へと切り替わった。

つまり1980年代のキャデラックは、デザインも含めて伝統的なアメリカン・ラグジュアリー路線から、よりモダンな存在へと移行する時期にあった。現代のキャデラック・エスカレードが、ストリートカルチャーの代表であるヒップホップのアーティストの憧れの的になっているのは、こうした下地があるからだろう。

アメリカのコンテンポラリーアートの潮流と、キャデラックのクルマづくりは一見、かけ離れた存在であるように思える。けれども同じアメリカ文化に根ざしたものであるだけに、どこかで通底しているのだ。