「いつも仕事部屋にいる」 家族だけが知る、谷川俊太郎さんの“父”としての姿

  • 写真:合田昌弘
  • 文:林 綾野
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詩人・谷川俊太郎さんは「父親」としてのどのような顔を持っていたのだろうか。長男の賢作さんと、長女の志野さんが、当時を振り返った。

雑誌「Pen」で反響の高かった特集『みんなの谷川俊太郎。』を、再編集&新規収録ページで再構成。より読みやすく、携帯しやすい書籍スタイルでお届け。PenBOOKS『みんなの谷川俊太郎。』より、新規収録した谷川さんの長男・賢作さん、長女・志野さんのインタビューを抜粋して紹介します。

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父との関係

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谷川賢作(左)●東京都出身。作曲家・佐藤允彦に師事し、1986年、作曲家としてデビュー。映画音楽、ピアノのソロ活動のかたわら、95年に谷川俊太郎の詩を歌うバンド、DiVaを結成。父とともに全国で音楽と朗読のコンサートを開催。

谷川志野(右)●東京都出身。1978年に15歳でアメリカ・ボストンの高校へ留学。ニューヨークの大学を卒業し、以来ニューヨークを拠点にする。デザイナーの職を経たのち、海洋学に興味を持ち、大学で学び直し、環境保全の職に就く。

──俊太郎さんは家ではどんなふうに過ごしていたのですか。

志野さん 父はいつも仕事部屋にいるというのが私の記憶では強いですね。

賢作さん そうだね。いつも自宅にいて、明らかに夜型でした。だから朝ぼくらが学校に行く支度でバタバタしていると、母に「お父さん徹夜で仕事しているんだから静かにしなさい」とよく言われたことを覚えています。

志野さん 仕事場が2階にあって、私たちの部屋は庭の向こうにあったので、母に食事のときに「お父さん呼んできて」と言われて。庭を渡って、階段を上って父の所に行くと、父は必ずそこにいて、仕事をしている。

賢作さん でもぼくが読んでいた『巨人の星』をいつのまにか父が読み出して、全巻揃えていたこともありましたね。家族4人、みんなで読んでいたんです。

志野さん 私は1回だけだったけど、家族で野球を観に行ったこともありましたね。

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1957年、谷川は文学座の女優、大久保知子と結婚。右から俊太郎、賢作、知子、志野。65年撮影。撮影:柿沼和夫

──父親としてはどんな存在でしたか。

賢作さん こんなに身内びいきな父親いないなってくらい、本当に若いときから助けてくれました。ぼくが音楽の仕事をやるようになってから、父は完全に応援団長でした。いろいろな人に紹介してくれるんですよね。「これ賢作。息子なんだけど、いま音楽やってて、いい曲書くから使って」ってね。もうマネージャーみたいな感じですよ。でも、そのうち2人で学校を回ったり、DiVaと一緒だったり、父と一緒に舞台に立ってライブや朗読会をやっていると、ある種ライバル関係が生まれてくるんですよね。父が朗読して観客にウケると、だんだんムカムカしてくる。父もぼくの音楽の方がウケると、ムキになって「じゃあ俺はこれやるよ?」なんて言ってね。

志野さん 父は私にとっても、いつも応援してくれる存在でした。経済的に助けてもらったこともあります。父がいることで、どこにいても大丈夫っていう安心感があるので、自由に動くことができたんです。もともとデザイナーをやっていたんですけど、やめて海洋学の道に進みたいと思ったときも、「いいんじゃない、やってみたら」って言ってくれました。そういうことができたのも、父がいたからっていうのがあるんですよね。

私にとって父は、そばにいる、いつも近くにいてくれる人。空気みたいで、いるのが当たり前でという感じでした。何をしてもいいよっていうのがいつも伝わってきて、一緒にいて、別に何も話さなくても、2人で黙っていても居心地よかったですね。

 

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