「最後まで好奇心はあった」 谷川俊太郎さんの“最期の二年間”、家族が語る日々の記憶

  • 写真:合田昌弘
  • 文:林 綾野
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2024年11月に亡くなった詩人の谷川俊太郎さんは、「最後の2年間」をどのように過ごしたのだろうか。音楽家として活躍する長男の賢作さんと、ニューヨークで環境保護の仕事に従事する長女の志野さんに話を聞いた。

雑誌「Pen」で反響の高かった特集『みんなの谷川俊太郎。』を、再編集&新規収録ページで再構成。より読みやすく、携帯しやすい書籍スタイルでお届け。PenBOOKS『みんなの谷川俊太郎。』より、新規収録した谷川さんの長男・賢作さん、長女・志野さんのインタビューを抜粋して紹介します。

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谷川賢作(左)●東京都出身。作曲家・佐藤允彦に師事し、1986年、作曲家としてデビュー。映画音楽、ピアノのソロ活動のかたわら、95年に谷川俊太郎の詩を歌うバンド、DiVaを結成。父とともに全国で音楽と朗読のコンサートを開催。

谷川志野(右)●東京都出身。1978年に15歳でアメリカ・ボストンの高校へ留学。ニューヨークの大学を卒業し、以来ニューヨークを拠点にする。デザイナーの職を経たのち、海洋学に興味を持ち、大学で学び直し、環境保全の職に就く。

「着陸態勢」に向かって

──谷川俊太郎さんの最後の2年間、皆さんで交代で介護されたそうですね。

賢作さん 彼の足がだんだん弱くなってきたのがきっかけですね。

志野さん それまで2階で寝起きしていたんですが、1階で過ごすようになったくらいから、「着陸態勢」に入った感じです。

賢作さん 2023年の半ばくらいから、誰かがそばについていなくちゃいけないということになって、「6時半から21時ルール」というのを作りました。その間、誰かがそばにいるっていう。父はそれに最初はすごく抵抗していましたけどね。

シフト表を作って、ぼくも献立を考えて夕飯を作ったり。コロッケとか洋食を出すとわりと喜んで食べてくれましたね。でも志野がアメリカから帰ってくると安心しきって任せて仕事をしてしまったり、自分の中で少し冷めた部分もあったんです。

志野さん それは自然なことでしょう。介護ってずっとだと自分が持たないから。私もそのために帰ってきてたわけだし。私はできるだけ俊太郎さんと一緒にいようと思っていました。夕ご飯作って一緒に食べて、その後も2人でテレビを見て、なんかくだらないことがあると、「あれ、なにー?」とか言って2人で笑って。そういう本当に普通の親子というか。深い話などは全然しませんでした。

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「着陸態勢」に入った谷川の朝は、この椅子に座って庭を眺めることから始まったという。詩を書く日もあれば、書かない日も。ゆるやかにエネルギーを落としていく父の姿を賢作さん、志野さんは横で見守った。家主を失った家はがらんとしている。増改築を重ねながら、父が生涯暮らし、祖父である谷川徹三が使っていた書斎も残るこの家をなんとか遺し、役立てたいという思いも。

賢作さん 最後の方は本当に口数が少なくなっていました。以前は会話に割って入って面白いこと言うような、ユーモアのある人でしたからね。それが家族や親しい人といても黙って聞いていることが多くなりました。

志野さん ただそれでも「好奇心」は最後まであったみたいです。車椅子で過ごすようになってから、私が北軽井沢の山荘をちょっと直して使いたいと話したら「いいね〜!」と言ってくれて。「新しくなったらぼくも見に行きたい」って。その時点ではもう外に出ることはできなかったのに、ちょっと楽しそうっていう感じが湧き出たみたいで、見に行かせてあげたいなと思いましたね。

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