お寺、善光寺。コロナ禍の2021年4月、そのすぐ東隣に周囲の環境と一体になった「ランドスケープ・ミュージアム」をコンセプトとした、長野県立美術館が誕生した。前身の長野県信濃美術館は1966年に開館し、半世紀にわたって県民に親しまれてきたが、2017年に一度休館し、名称を新たに新築オープンした。
2023年7月15日から、美術館1階の交流スペースで長野の山々の上に星空が投影される美しい作品の公開が始まった。「配置訓練」というちょっと変わった名の作品を作ったのは、アーティストの細井美裕と比嘉了。
細井は2020年に第23回文化庁メディア芸術祭アート部門新人賞を受賞した後、2021年にForbes JAPAN「30 UNDER 30 JAPAN」のアート部門にも選ばれるなど大きな注目を集めている。また、ファッションブランド「CFCL」の映像に音を提供したことでも話題に。今回、長野県立美術館にて、アップル社が新たに提供を開始したiPad版のLogic Proを活用して制作したという彼女の新作について話を聞く機会を得た。
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星空を見つめ直して、自由な発想に立ち返る
L型の壁いっぱいに投影される映像音響作品「配置訓練」。全編20分ほどの作品で、長野県立美術館が掲げる基本コンセプト「ランドスケープ・ミュージアム」を再解釈したものだという。
まず現れるのは美しいモノクロームの山並み。比嘉了が、国土地理院の3D地形データを元に描かせた美術館周辺の正確な山並みだという。やがて、その上に星々が映し出され、星同士を線で結んだ星座が表示される。やがて映像の視点は遠く宇宙へと飛び出し、星座の星々に近づいていく。それにつれて星座の形はどんどんと崩れ、点にしか見えていなかった星々に実は大きさの違いがあったり、平面的に並んでいるように見えていたが、実際には遠近差があることに気が付かされる。
映像の視点はその後、再び出発点だった長野の大地に舞い戻る。星々も我々の知る星空の形を取り戻す。この瞬間の映像がとても美しい。
我々は星の並びを身近なものに例えて星座に名前をつけているが、星座の配置は地上から見える一面的な姿に過ぎない。そんなことを教えてくれるこの作品、背後にどんな意図があるのか。
細井は自身のSNSでこう説明している。
「情報に溢れる今日を、無数の星に対して星座という曖昧なコミュニケーションツールを発明した状況と結びつけた、自由な発想にたちかえるための作品です」
「できあがった作品は、今後、ずっと美術館に収蔵されます。20年後、30年後に振り返った時、この時代の人はこんな風に考えていたんだ、と感じてもらえるように作品だけでなく、その背後の考えも収蔵してもらいたかった」
比嘉さん、キュレトリアル・アドヴァイザーの阿部一直さんと半年以上議論を重ね、こんな結論に辿り着いたという。
「いま、我々は常にデータが集まり続ける、大量のデータが溢れる時代を生きている。これからはそのデータを見方を変え、どう解釈していくかを考えることが重要になる」
そんな議論をしていた時、その状況が星座の成り立ちに似ていると感じたという。空に広がる星々。昔の人々は見つけた星の並びを身近なものに喩えて、例えば方角を示したり、占いをするのに用いた。
展覧会の正式なタイトルは「配置訓練 Constellation Manual」。
まずは英語の「Constellation」と言う語を使うことが決まった。この語には、「星座」という意味以外にも「配置」や「布置(ふち)」といった意味もある。
「布置(ふち)」は分析心理学用語。「受けとった時には何を意味するかわからないものが、しばらく他の似たようなものが出てくるのを眺めているうちに、突如、全体としてのつながりが見えてくる状況」と言うのが細井による「布置」の理解。これが自分達が表現しようとしているものにつながったという。
日本語タイトルでは、他の誰かが作った「星座」という言葉を避けて「配置」と言う訳語を選び、作品で示した考えを実践できるようにと「訓練」という言葉を添えたという。
と、ここまでは映像の話だが、細井の本分である音にはどのような考えが込められたのか。
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作品にコントラストを与える音
交流スペース用に映像作品を委託制作するプロジェクト「新美術館みんなのアートプロジェクト」の後継プロジェクト「第Ⅱ期みんなのアートプロジェクト」成果展示として作られた同作だが、キュレトリアル・アドヴァイザー、阿部一直から指名をされた細井は、自らの声で作品を作る音のアーティストだ。
「普段は映像、ビジュアルは敵だと思っています(笑)。音からしか想像できない景色などを表現しようとしているので…」
例外もあるが、基本的には主張がなくなるまで抽象化した映像作品にしか音を提供しないという細井。今回は信頼を寄せる映像クリエイターとして比嘉了さんと組み、主観をできるだけ削ぎ落として、国土地理院などが提供するデータから描き出される映像を作ってもらった。
「これらのデータは社会が必要だろうと考えて残してきた集合知的なデータ。およそ1人の人間では集められなかったものです。我々の社会ではそうしたデータも重要ですが、一方で誰か1人の人間にしか価値がわからないけれど、それでもその人が凄く好きで大事にしているデータというのもあります。例えば誰かがよく歌っていた鼻歌などもそうかもしれません。この人はなんでこれを残そうとしているんだろう? と思うような極めて個人的な記憶。私はこの2つのどちらも大事だと思うんです」
そんな思いを体現するべく、音では細井の極めて個人的な思いを表現した。細井自身の声を何重にも重ねた少し神秘的で、それでいて優しく包み込んでくれるような音だが、そこにたまにモールス信号が紛れている。
合唱をやっていた時、常に歌詞の言葉に神経を使いながら歌っていた彼女は「ビジュアルと同様に、意味を持った言葉もなくしたい」と考えており、だからこそ声を歌としてではなくただの音として使うことにこだわっている。
しかし、だからといって作品を無意味にしたいわけではない。そこで表現の推進力となる意味を込めるために、彼女はしばしばモールス信号を用いているのだ。
今回の作品では彼女が好きだという「我々はバックミラー越しに現在を見ている」というマーシャル・マクルーハンの言葉をモールス信号で表現したという。
聞いてもほとんどの人は、そこにどんな意味があるかはわからないだろうが、なにか意味がありそうだということだけは伝わる。その部分の軸を通しておきたかったのだという。
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細井の認識を変えた、iPad版Logic Pro
今回の作品作りでは、タイミングに助けられたと細井は言う。実は製作が追い込みに入っていた5月、細井も愛用しているプロ用の音楽製作ツール、Logic ProのiPad版を提供するとアップル社が発表したのだ。
細井の作品づくりには音のモチーフ作り、声の録音、編集という3つの工程があり、それぞれで使うソフトも異なっており、やり方を見直さなければと思っていたが、このiPad版のLogic Proが思っていた以上に使いやすく、結局すべての工程のデモ制作をこのアプリで行ったという。
「学生時代にアップル社のGarageBandというソフトで音楽制作を開始した後、しばらくMac版のLogic Proも使っていけれど、少し舐めていました。当時のものからは全然進化していて、自分の制作にかなり本格的に使えると分かりました」
例えばモチーフ作り。細井の作品は小さい音のモチーフをたくさん積み重ねて作るのが特徴だが、これをパソコンでやろうとすると大変だった。キーボードを鍵盤代わりに演奏するが、ちゃんとデータが入力できているかは画面上のMIDIロールで確認と意識をあちらこちらに向けなければならない。
それがiPad版のLogic Proでは画面上に表示される鍵盤を直接指で触れて操作ができる。圧倒的に直感的なのだ。
基本となる音を活かして、決めた範囲の中でバリエーションをたくさん作るといった作業がある。「それをシーケンサーのランダマイズ機能で、四角い枠の中で指を少し動かすだけでできたことは衝撃でした。同じことをパソコンでやろうとすると本当にいくつもの面倒なステップを踏まなければならず、そこに神経を奪われてしまうのが、iPadだと極めて感覚的に行えてしまいます。身体の延長として作業できるのはかなり凄いことだと思いました」
「自分の中では、これまでなんでもできるのがパソコンで、iPadは便利だけれど補助的、という感覚があったのですが、今回、iPadでしか直感的にできないことがたくさんあると知れたのは大きな発見でした」
実はiPad Proの機動性にも助けられたという。製作期間中に引っ越しが重なり高さの合う机がなかったため、しばらくは家でもiPad Proで作業をしていたという。
同様のことは製作の終盤でも役立った。展示の現場に詰めて最終的な仕上げをする際、片手で本体を支えて、もう片方の手で作業できるiPad Proの使い勝手が良かったという。
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立体音響は現実の音を再現し、現実にない音も創り出す
ところで、細井さんといえば自らの声で作ることに加えて、立体的音響表現を使うことでも有名だ*。デビュー作の「Lenna」もこのスピーカーを使う22.2chの作品だった。
最近、「空間オーディオ」や「ドルビーアトモス 」といった技術の名前を聞くことが増え、映画だけでなく、動画配信サービスやApple Musicで配信される音楽作品まで次々と立体音響を導入している。しかし、細井さんは2019年以来ずっと、当たり前に立体音響で作品を作り続けてきたパイオニアだ。
彼女はなぜ早くから、立体音響に着目していたのだろう。
「答えはシンプルで、我々が生きている世界のそもそもの音がサラウンドだからです。立体音響の作品はそうした自然の音に近い。私はむしろ、これまでのステレオの音の方が特殊だと感じます。現実の世界の音や、音楽の立体感を、左右たった2つのスピーカーだけで表現しようとしているのですから」
なるほど、と膝を打った。まるで冒頭で紹介した作品「配置訓練」のメッセージのようだ。例えばステレオ音響のように、あるテクノロジーが普及すると、それによって我々はモノの見方が固定されてしまうことがある。しかし、もっと広い視点で世の中を見てみると、それまで当たり前だと思っていたことに違う解釈ができることが多い。そうした解釈は時代によって変化を続けている。
細井さんのような新世代のアーティストが活躍してくれることで、新たな地平が見えてくる。
なお、今回紹介した作品「配置訓練」は9月10日までの展示で、交流スペースに隣接するオープンギャラリー には本作以外にも細井美裕さんのこれまでの作品を紹介したコーナーがある。さらに9月には国宝の善光寺本堂を見下ろす屋上広場[風テラス]でも、長野市内各地の協力を得て、遠隔地からリアルタイムで集音する独自のシステムを用いた新作サウンドインスタレーション「起点」が披露されるという。
長野県立美術館では、同時期、長野にゆかりのある作品を中心としたNAMコレクション展示 と特別展「葛飾北斎と3つの信濃―小布施・諏訪・松本―」を8月27日まで開催中で、連絡ブリッジ で繋がれた東山魁夷館もある。
*空間オーディオによる表現については、iPad版ではなくMac版Logic Proで行っている。
第Ⅱ期みんなのアートプロジェクト成果展 配置訓練 細井美裕+比嘉了
開催期間:2023年7月15日(土)~2023年9月10日(日) ※休館 水曜日
開催場所:長野県立美術館 交流スペース
長野市箱清水1-4-4
観覧料:無料
キュレトリアル・アドヴァイザー:阿部一直、サウンドエンジニア:奥田泰次(studio MSR)
nagano.art.museum/exhibition/constellation-manual-miyu-hosoi-satoru-higa
ITジャーナリスト
1990年から最先端の未来を取材・発信するジャーナリストとして活動を開始。アップルやグーグルなどIT大手に関する著書を多数執筆。最近は未来をつくるのはテクノロジー企業ではないと良いデザインやコンテンポラリーアートの取材に注力。リボルバー社社外取締役。金沢美術工芸大学客員教授。
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1990年から最先端の未来を取材・発信するジャーナリストとして活動を開始。アップルやグーグルなどIT大手に関する著書を多数執筆。最近は未来をつくるのはテクノロジー企業ではないと良いデザインやコンテンポラリーアートの取材に注力。リボルバー社社外取締役。金沢美術工芸大学客員教授。
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