下北沢と本多劇場

  • 文・写真:細谷正人 
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下北沢駅から徒歩2分。本多劇場の入り口。この階段を登ると一気に気分が演劇モードになるのだ。

 

このコラムでも歌舞伎について触れたことがありますが、歌舞伎や能、演劇、ミュージカル、オペラやクラシック、ジャズにロック、お笑いに落語、そしてJ-POPからK-POPまで、どんなジャンルでも興味があれば、劇場やライブハウスに足を運んでいます。これは、もはや私の立派な趣味なのかもしれません。

こんな状態なので舞台芸術に関する知識は散漫で、オタク化できる程まで濃厚ではなく、広くて浅い。つまり、“劇評”みたいなことはまったくもって書くことはできません。その代わり、全国津々浦々、劇場やコンサートホールには出かけていくので、もしかしたら観客からみた「劇場評」ならば、少しだけまともなコラムが書けるかもしれないと思い、今回は畏れ多いのですが演劇の聖地「本多劇場」について書いてみたいと思います。

数年前から下北沢の近所に住んでいます。徒歩数分で本多劇場やザ・スズナリに行けてしまうので、私にとって正にホームグラウンド的な劇場です。 ご存知の通り下北沢は演劇の街。 近年、下北沢は高架下の開発が行われ、大きく街のイメージが変わろうとしています。一方で本多劇場、ザ・スズナリ、駅前劇場、OFF・OFFシアターなどの劇場は、昔と変わらずに駅周辺に数多く存在します。実はこれらの劇場たちは、本多一夫さんが一代で築き上げてきました。本多グループは現在下北沢で8つの劇場を運営していますが、世界でもこれだけの個人劇場主は存在しないと言われています。

本多さんは、札幌の下駄屋に生まれ、北海道放送の演劇研究所で芝居を学んだ後、東京に上京。新東宝ニューフェイスというオーディションにも合格。しかし映画全盛期の時代に巻き込まれ、映画俳優という職業に見切りをつけ、本多さんは下北沢で飲食業を成功させます。そして今から40年程前の1982年、ついに駅前の銭湯だった跡地を買い取ります。あの頃、舞台に立ちたくても立てなかった自分のような人たちが自由に活動できる板(舞台)を作るという志を胸に、その夢を実現させてしまうのです。しかも、演劇人が納得する空間を作れるまで、土地の広さや奥行きにもこだわったという夢を集結させた劇場。それが本多劇場なのです。

 

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『「演劇の街」をつくった男 本多一夫と下北沢』(ぴあ)  語り:本多一夫、著:徳永京子 インタビュー証言をしている演劇人が豪華。必見です。

本多劇場はまさしく演劇の聖地。演劇そのものだけでなく、ここで芝居をしたいと願った人が作るエネルギーが観客とぶつかり合う瞬間を俯瞰してみることができます。面白い!と感じれば、その熱気が劇場全体を包み込み、難解で解読が難しい戯曲や演出だと観客もその難題を何とか解こうする、緊張感のある空気に包まれます。芝居の神様が棲むと言われる本多劇場。その何とも言えない空気感は、客席側でも体感できることができる満足感となり、おそらく動画配信ではその空気は伝わらないと思うのです。

本多劇場で観た後は、わざわざ新宿や渋谷に繰り出すことはほとんどなく、周辺の下北沢の居酒屋で酒を飲みながら芝居の感想を言い合ったり、戯曲の解釈を整理してみたりするのがいつものコース。それが心底、楽しい。演劇は劇場という空間だけが重要ではなく、観終わった後、街と密接に繋がっているほうが演劇そのものをもっと面白くさせてくれるのかもしれません。例えば、東京には紀伊國屋ホールや三越劇場のような本屋やデパートの中にある世界にも類を見ない劇場はありますが、本多劇場のように密接に街と繋がっている劇場はヨーロッパなどに比べて日本には少ないのです。

私は演劇の作り手ではないのでその真意はわかりませんが、きっと劇作家も演出家も役者も「あの本多劇場やザ・スズナリで芝居をするのだ!」ということをイメージして、戯曲や演出を作り上げているに違いないと思うのです。その時、おそらく舞台の奥行きが設備だけでなく、下北沢という街も想像して、ひとつの作品を作り上げている。もしそうだとしたら、観客側も下北沢全体で観劇しなくてはいけないということになるわけです。

さらに、本多劇場は演劇界の重鎮の作品も、若手のお笑いやコント集団も上演されるのがユニークです。この5月にはコントも演劇も分け隔てなく活動する8人組ダウ90000の演劇公演「また点滅に戻るだけ」。気持ちよいゆるさがありながら、緻密なディテールで構成しているから秀逸かつ強烈。観客とイメージを共有できる大小の固有名詞が畳み込まれ、これは展開に追いついていかないといけない!と焦らされるスリリングな感覚も。そして終演後は下北沢の焼肉「肉人」でホルモンとハイボールをいただきました。

そしてこの6月は、僕の大好きな劇作家、岩松了さんの作・演出「カモメよ、そこから銀座は見えるか?」。見える人と見えない人、現実の人と空想の人、悲観的な人と楽観的な人、前を向いていく人と過去を引きずっている人。「怒り」と「赦す」との狭間は案外近いもかもしれないと考えさせられるような岩松節が炸裂。演劇通な観客たちは見終わった後にも、うーん、これは深く考え続けなければならないと眉間にシワをよせて劇場から出ていく様子が面白かった。終演後は下北沢の季節料理「伽羅」でカニクリームコロッケとビールを。

閉ざされていた気持ちがやっと解放される夏がやってきますが、本多劇場で演劇を楽しむ下北沢をおすすめします。そしてその後は路地に入り、人で賑わっている居酒屋でふらっと一杯を。そうしたひとときまでが舞台を観るということだったのだと気付かされるはずです。下北沢を愛する住人として、古着屋めぐりやカレーめぐりとはちょっと違う、下北沢ならではの懐の深さを感じてもらえると嬉しいです。

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ダウ90000の第5回演劇公演「また点滅に戻るだけ」。埼玉県所沢市内にあるゲームセンターが舞台。20代後半の若者たちが出会う青春ストーリー。
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本多劇場入口横のチケットカウンター

 

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本多劇場は、下北沢駅前の藤和下北沢ハイタウン内2階にある。

細谷正人

ブランディング・ディレクター

NTT、米国系ブランドコンサルティング会社を経て、2008年にバニスター株式会社を設立。同社代表取締役。P&Gや大塚製薬、サイバーエージェント、ワコールなど国内外50社を超える企業や商品のブランド戦略とデザイン、人財育成まで包括的なブランド構築を行う。主な著書に『ブランドストーリーは原風景からつくる』、『Brand STORY Design ブランドストーリーの創り方』(いずれも日経BP)。法政大学大学院デザイン工学研究科兼任講師。

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細谷正人

ブランディング・ディレクター

NTT、米国系ブランドコンサルティング会社を経て、2008年にバニスター株式会社を設立。同社代表取締役。P&Gや大塚製薬、サイバーエージェント、ワコールなど国内外50社を超える企業や商品のブランド戦略とデザイン、人財育成まで包括的なブランド構築を行う。主な著書に『ブランドストーリーは原風景からつくる』、『Brand STORY Design ブランドストーリーの創り方』(いずれも日経BP)。法政大学大学院デザイン工学研究科兼任講師。

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