戦国最強の武将は誰だ? 剣聖から槍の達人、弓や鉄砲の名手まで、戦場で恐れられた猛将12人

  • 文:藤村はるな
  • イラスト:黒木仁史
  • 監修:渡邊大門
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織田信長や武田信玄、徳川家康といった歴史に名を残す大名の裏に、名家臣の存在あり。戦国時代において名を挙げるためには、戦で武功を立てることは必須であった。世にその名を轟かせた剣豪や槍の名手、弓や鉄砲での狙撃に秀でた武将12人を取り上げる。

明智光秀はなぜ「本能寺の変」を起こしたのか? 「関ヶ原の戦い」で真の裏切り者は誰だったのか? 戦国時代には多くの謎が残され、そんな歴史の悪戯が人々の興味関心を惹きつけることで、それらを題材としたエンターテインメント作品も数多く生まれてきた。一方で、近年の研究でわかった事実もたくさんある。上杉謙信の度重なる北条攻めには意図があったこと、“悪人”の汚名を着せられた松永久秀は冤罪の可能性があったこと……。現在発売中のPen最新号「戦国武将のすべて」では、あらゆる角度から戦国武将の実像に迫る!

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柳生 宗厳(やぎゅう むねよし)/ 1529~1606年

家康も師事! 天下一の兵法を極めた名取り

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大和国柳生庄(やぎゅうのしょう)に生まれた剣豪・柳生宗厳。戦国時代には武士の間で武芸を会得するために兵法が注目を浴びていたが、宗厳は多様な兵法を会得し、三好長慶や筒井順慶(つついじゅんけい)、松永久秀、織田信長など、さまざまな有力大名に仕えた。剣聖と呼ばれた上泉信綱に出会い感銘を受け、師事。相手の懐に飛び込んで素手で刀を取り押さえる「無刀取り」をはじめ、人を殺さぬ剣術を極め、自ら柳生新陰流(やぎゅうしんかげりゅう)の開祖となった。徳川家康に招かれた際にも無刀取りを披露し、そこで感服した家康が新陰流を将軍家御家流に抜擢。「天下一の兵法」と呼ばれるようになる。また、家康に仕官を請われると、息子の柳生宗矩(むねのり)を推挙。その後、宗矩は柳生藩初代藩主となった。

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上泉 信綱(かみいずみ のぶつな)/ 1508~1577年

数多くの英雄を生み出した、武芸の開祖

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戦国時代の兵法家である上泉信綱は上野(こうずけ)国(現・群馬県)出身。「上泉伊勢守(かみいずみいせのかみ)」とも呼ばれる。当初は、上野の猛将として知られる箕輪城主・長野業政(ながのなりまさ)に仕えていたとされる。信綱は業政からも大いにその武功を褒められ、「上野国一本槍」とも呼ばれた。また、上野上泉城で愛洲久忠(あいすひさただ)から教わった秘儀を発展させ、独自の流派・新陰流を創設する。のちに箕輪城を陥落させ、長野家を滅亡させた武田信玄がその武芸の腕を見込んで仕官を請うたが、信綱は断った。自らが立ち上げた新陰流を広めるべく、弟子とともに諸国を旅してまわり、将軍・足利義輝や正親町(おおぎまち)天皇の前でその剣技を披露。柳生宗厳、宝蔵院胤栄(ほうぞういんいんえい)らの名だたる剣豪を弟子にして、戦国時代の武芸の元祖となった。

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塚原 卜伝(つかはら ぼくでん)/ 1489~1571年

生涯負け知らず、将軍に剣技を指南した達人

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生涯無敗で、戦国最強の剣豪として知られる塚原卜伝は、鹿島神宮の神職の家庭に生まれた。後に塚原家の養子となり、実父・吉川覚賢(よしかわあきかた)から「鹿島中古流」、養父・塚原安幹(やすもと)からは「香取神道流(かとりしんとうりゅう)」などの剣技を叩き込まれることに。武道の才があり、戦では負け知らずだったとか。なかでも「高天原(たかまのはら)の合戦」に出陣した際は、敵方の首を21も打ち取ったという逸話もある。最強の武芸者ながらも自身の限界を感じた卜伝は、鹿島神宮に1000日間こもって修行を重ねた末に、秘伝「一之太刀(ひとつのたち)」を会得。鹿島新当流の創始者となり、大勢の弟子を育て、諸国で剣術の指導を行った。室町幕府の将軍・足利義輝の剣術の指南役としても活躍し、義輝や北畠具教(きたばたけとものり)、細川幽斎らにその秘伝を授け、戦国時代の剣技の発展に貢献した。

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本多 忠勝(ほんだ ただかつ)/ 1548~1610年

負傷歴ゼロ! 忠義で知られる徳川家の勇将

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徳川家康を支える徳川四天王のひとりで、随一の勇将として知られる本多忠勝。幼少から50回以上の合戦に参加したものの、一度も傷を負わなかったそうだ。槍の使い手として知られており、のちに「天下三名槍」といわれる蜻蛉切(とんぼきり)を愛用。この名は、あまりに優れた槍だったため「トンボが槍の先端に止まっただけで、ふたつに割れてしまった」との逸話から。主君である家康を深く慕い、「侍は首を取らなくても、手柄を取らなくてもいい。主君と枕を並べて一緒に死んで忠義を守ることが大切だ」との言葉を残したほど。事実、家康よりも先に病の床に就いた際は、家康を残して死へ旅立つことを大層悔しがったとか。

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福島 正則(ふくしま まさのり)/ 1561~1624年

名槍「日本号」とともに、名を馳せたやり手

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「賤ヶ岳の七本槍」に数えられる福島正則は、母が豊臣秀吉の叔母であった縁から秀吉に仕えるように。豊臣家で有数の武断派として知られ、初陣の「三木城の戦い」では敵の首をふたつ打ち取り、「賤ヶ岳の戦い」でも敵将の拝郷家嘉(はいごういえよし)を一番槍として打ち取るなどの戦功を挙げ、秀吉の配下で24万石の大名へと上りつめた。従来は武道一辺倒の猛将と考えられがちだったが、「関ヶ原の合戦」後、西軍の大将・毛利輝元と合議の末、戦なしに大坂城から撤退させるなど、交渉面でも活躍。なお、「天下三名槍」として正則が大事にしていた「日本号」を黒田家の家臣との酒の席で賭け、負けて譲ることになった話も残る。現在でも日本号は黒田家に伝わる秘宝として福岡市博物館が所蔵している。

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前田 利家(まえだ としいえ)/ 1538~1599年

「槍の又左」から、大大名へと出世した強者

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加賀藩主・前田氏の祖である前田利家は尾張国に生まれ、若い頃は血気盛んな傾奇者(かぶきもの)だったとか。織田信長の配下では槍の名手として知られ、「槍の又左」との異名をもっていた。信長と弟の信勝(のぶかつ)の家督争いから起こった「稲生(いのう)の戦い」では、矢で右目の下を射抜かれながらも相手を弓で討ち取るほどの勇猛さを見せた。その後、信長直属の親衛隊である赤母衣衆(あかほろしゅう)に大抜擢されるも、信長が寵愛していた僧侶・拾阿弥(じゅうあみ)を斬り捨てたことが信長の逆鱗に触れ、出仕停止処分に。それにもめげず、「桶狭間の戦い」や「森部の戦い」には無断で参加し、数々の首を上げたことで、再び出仕を許された。信長亡き後は秀吉に仕えて武功を上げ、加賀藩23万石の大名となった。

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内藤 正成(ないとう まさなり)/ 1528~1602 年

200人以上を射抜いた、徳川十六神将のひとり

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徳川家康に仕えた徳川十六神将の中で、最も弓がうまかったと言われる内藤正成。三河国に生まれ、16歳で出陣した「小豆坂(あずきざか)の戦い」では、200人以上の敵を射抜いたとのエピソードも残る。その腕が徳川家康の父である松平広忠(ひろただ)の目に留まり、広忠のみならず、家康にも仕えるように。忠義深さでも知られ、「三河一向一揆」が起こった際は、一揆側に立った自分の舅(しゅうと)である石川十郎左衛門(じゅうろうざえもん)と相まみえても、「主君の大事、舅上御免」と叫び、躊躇せずに舅の膝を矢で射抜いたとか。その他、家康が秀吉と対峙した「小牧・長久手の戦い」でも、正成が偵察の末に出撃を提案。家康がその案に同意したことから勝利したと言われている。弓の腕や忠孝をもって、徳川家を支え続けた。

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立花 宗茂(たちばな むねしげ)/ 1567〜1643年

旧領への復帰を果たした、弓の名手

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柳川藩主の立花宗茂は、豊後国・大友家臣の立花道雪(どうせつ)の娘婿となった後、秀吉から気に入られ、筑後柳川13万石の藩主となった。弓の名手としても有名で、初陣の「八木山合戦」では、敵の武将の腕を矢で射抜いたり、浅野長政を前に数十mも離れた鴨を一撃で命中させたり、弓と鉄砲の精度で黒田長政と争って勝利したりなどといった話も。朝鮮出兵の際は日本軍の先鋒を務め、秀吉から「日本無双の勇将たるべし」との感状を拝領した。関ヶ原の戦いで西軍に味方したことで領地は没収されるものの、これまでの武勇伝の数々から2代目将軍・徳川秀忠に気に入られ、再びかつての領地である筑後柳川11万石を与えられることに。日本で唯一旧領への返り咲きを果たした大名となった。

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六角 義賢(ろっかく よしかた) / 1521~1598 年

織田信長にも徹底抗戦、将軍家に仕えたエリート武人

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六角義賢は、足利将軍家に仕えるエリート武家・六角氏の嫡男として生まれ、近江国守護として影響力をもった人物。将軍家はもちろん、細川家、三好家といった有力大名たちの間で強い存在感を放った。政治一辺倒ではなく、自身の家臣である吉田重政から弓を習い、その腕前から日置流印可(へきりゅういんか)を授けられるなど、武芸にも優れていたという。ただ、新興大名の織田信長を毛嫌いし、長い間戦を仕掛け続けたものの敗戦続き。その後、息子に早く家督を譲りすぎたせいで家臣たちに裏切られ、六角家の滅亡につながった。ただ、義賢は息子たちにも弓を伝授していたようで、長男の義治(よしはる)は弓の腕を秀吉に認められ、息子・秀頼(ひでより)の弓の指導役にも抜擢されたとか。

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滝川 一益(たきがわ かずます(いちます))/ 1525~1586年

戦国最強の武田騎馬隊を、自ら採り入れた鉄砲で撃破

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戦国時代に舶来した新たな兵器として注目された鉄砲。その鉄砲を早期から取り入れ、主君である織田信長を数々の勝利に導いたのが滝川一益だ。その生誕地には諸説あるが、一説によれば近江国の武士の家に生まれた一益が、鉄砲の産地だった堺へと渡り、製造技法や射撃を学んだとされている。その後、池田恒興(つねおき)の口利きから、一益は信長の前でその腕前を披露。およそ50m離れた場所から、火縄銃100発を的に打ち込んで72発を命中させる快挙を成し遂げ、信長に召し抱えられることに。信長の智将として活躍し、織田四天王のひとりにも数えられた。武田信玄の後継者である武田勝頼と激突した「長篠の戦い」では、3000丁の鉄砲を駆使して鉄砲隊を指揮し、当時戦国最強と呼ばれた武田騎馬隊を撃破した。

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島津 義弘(しまづ よしひろ)/ 1535~1619 年

明軍から鬼と恐れられた、鉄砲を操る薩摩の猛将

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戦国随一の猛将とされるのが、薩摩を治める島津一族の島津義弘。島津家当主である兄・義久(よしひさ)を支えた。自身が鉄砲の名手でありながら、鉄砲隊の指揮のうまさで数々の戦で成功を収めた。朝鮮出兵の「泗川(しせん)の戦い」で明と朝鮮の連合軍と対峙した際も、鉄砲を駆使して敵兵を撃退。島津軍の強さに、明軍からは「鬼石曼子(おにしまづ)」と恐れられた。特に有名なのが、関ヶ原の戦いの退却時。鉄砲隊の最後尾の小隊が後方を攻撃している隙に味方を逃がす「捨てがまり」という捨て身の戦法で、島津軍は数万の敵兵の中、わずか300騎で中央突破し、大半の兵を失いつつも義弘は薩摩へと帰還を果たした。これは「島津の退き口」として、島津軍の勇猛さを示す逸話となっている。

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鈴木 孫一(すずき まごいち)、雑賀孫一鈴木 重秀(さいかまごいちすずき しげひで)/ 1534~1589年

全国から援軍要請を受ける、射撃集団の頭領

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戦の勝敗を鉄砲の有無が左右していたといっても過言ではない戦国時代。優れた射撃集団である「雑賀衆(さいかしゅう)」が存在した。雑賀衆は傭兵的な役割も担っており、全国の有力者から戦のたびに援軍要請を受けていたとされる。なかでも紀伊半島を拠点として活躍していた雑賀衆の頭領が鈴木孫一だ。向かうところ敵なしだった織田信長が唯一苦戦した一向宗との戦いである「石山合戦」でも、本願寺からの要請で孫一率いる雑賀衆は一向宗に味方。2列の隊列を組んで片方が発射する間、片方は弾を込める連射連携で鉄砲隊を組織し、信長軍を苦しめた。史料などがあまり残っていないため不明な点も多いが、孫一の名は、戦国最強の狙撃手として現代でも語り継がれている。

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