「Do it yourself」の精神でニューヨークのアート業界を唸らせる松山智一の哲学【インタビュー】

  • 取材・文:菅 礼子
  • 写真:Pedro Torres

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松山智一

「独学でアートを始めたのでニューヨークの街中をキャンバスに見立てるしかなかった」と語るアーティストの松山智一。マンハッタンのバワリーにある巨大な壁にパブリックアートを完成させたこともあるニューヨークで活躍する日本人アーティストだ。

マルチカルチャーリズムの代表とも言える街、ニューヨークで己のアイデンティティに向き合いながら作品をつくる松山氏は今年一年でパリ、イスタンブール、ロンドン、上海、東京など世界各地で展覧会を開催しており、世界中からのラブコールが絶えない。

プロのスノーボーダーとして活躍した後、怪我により引退し、アートを独学でスタート。ヒップホップやスノーボード、スケートボードなどのストリートカルチャーで育った彼の作品は自分が影響を受けたものを“引用”するというアートの世界では新しい境地を切り開き、スターダムへとのしあがった。「僕、まだ絵が描けないんですよ」と平然と話す彼は器用で努力家、そして時代の風を読み解くセンスを持っている。

ヒップなエリアとして注目を集めるブルックリンのグリーンポイントのスタジオは8000スクエアフィートという開放的な空間で20名以上のスタッフを抱えている。多忙なスケジュールを縫ってニューヨークに戻った松山氏に話を伺った。

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スタジオスタッフ全員を集めて

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プロのスノーボーダーからアーティストへ

―異色の経歴ですが、アートの世界に足を踏み入れたきっかけを教えてください。

大学時代にスノーボードを始め、セミプロとして活動をしていたのですが、僕がやっていた当時はスノーボードがオリンピック競技になる前、産業化される前。スケートボードと一緒でカルチャー要素が強いスポーツで、僕にとって表現としての手段でした。スポーツをやっているというよりは生活の延長の一部で、当時の自分の人生の中で大きなウエイトを占めていたものでした。でも、大怪我をしてしまい、10カ月間リハビリをしている間に今後一生挑戦できる何かをやりたいと思って。

スノーボードの遠征でコロラドやワイオミングに行くと夜はマイナス30度ぐらいになってやることがないんですよ。音楽をつくる仲間の横で、僕は絵を描いていましたね。その当時のビジュアルカルチャーやグラフィックカルチャーはDIYの要素が強くて、そこには刺激的なコミュニティがあったので、大きな怪我でスノーボードができなくなった後に、人生をかけて取り組む表現の世界に身を置くことを考え、今に至っています。最初からファインアーティストになりたかったわけじゃなく、DIY世代に影響を受けたカルチャーサイドからアートの道に入った人間なんです。

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独学で始めたアートとヒップホップの共通点

―独学でアートを始めたそうですが、何からインスピレーションを得て、どのように今の作風にたどり着いたのでしょうか?

今でも美大で教わるようなアカデミックな写実絵画は描けないんですよ。だからと言って表現ができないわけでは全くなく、自分の等身大の表現言語を追求してきただけです。僕は、90年代のカルチャーに多大なる影響を受けており、その一端であるヒップホップやハウスのようなクラブミュージックを聞いて育ちました。これらの音楽のクリエーターも多くが正規な教育を受けていなくともサンプリングという手法を活用し、既存のリソースをアレンジし重ね合わせ、聞いたことがない作品を生み出しました。要は、カスタマイズという言語が新しい表現へと昇華し、そうしたクリエーションに対するアティチュードに多大なる影響を受けたということです。それが世代の言語だったからです。リスナー側、つまり受け手側が「こうすればもっと面白くなるかもしれない」という発想から生まれる世代の声です。音楽でもファッションでも当たり前のように僕らの世代において共有したこの概念と表現言語を自分の場合はアートを創作する上で用いました。

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さまざまな文化や時代から引用されて出来上がった作品たち

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多文化主義の中で問いかけるアイデンティティ

―作品の中に引用するものは普段どんなものですか? 引用のアイデアが浮かんでくるのでしょうか?

今僕たちが生きている時代は、あまりにも文化間の混淆が進み、捉えどころがなく、言葉では説明し難いところにいます。ニューヨークのような場所に長く暮らしていると、文化の「帰属性」という概念すら古い考えに思えてきて、故に、これからの自分たちのあり方(アイデンティティー)に非常に強い興味を抱きます。ますますデジタル・コミュニケーションが進み、web3の時代が到来するとともに、自分たちの居場所の定義がより自由になり、解放されると感じています。作家の仕事が眼前のリアリティーを描写することであれば、既存のリアリティーの定義すらなくなってしまいそうな今、その景色を捉えることに自分は興味を抱きます。

ニューヨークで活動して思うことは、普遍的で天才的なアイデア、生まれ持った才能という概念は存在しないんだと痛感します。表現の焦点が違うところに存在するからです。新しい社会を様々なアングルから捉えるアーティストが生まれてくる環境では、表現の面白さも多角的で自由である一方、熾烈な生存競争が繰り広げられています。毎日篩(ふるい)にかけられながら、時代と共振する作品をつくりつづけることが僕の目標です。「up or out」で進化しつづけるか消滅するか。作家としての戦いです。

アメリカでは多くのハードルを超えないと活動を継続することはできません。言語の壁、文化の壁、人種の壁。僕たちアジア人はアメリカではマイノリティ。であれば、作品を通じてそれが「me」なのか? 「we」なのか? を問い、作品上に客観と主観が共存させることで、そうした壁を越えられると信じています。タイムリーとタイムレス、パブリックとプライベート、マスとニッチ、今と未来の関係性を探求し相互影響させることで鑑賞者との接点が生まれるんです。作品が時代の鏡であるための僕の言語です。つまり、答えをつくることがアーティストの仕事ではないということです。

一つの作品の中に様々な影響を受けた要素を引用しレイヤー化していくことにより、親しみがあるようでない景色、感じたことがあるようでない違和感をつくり上げ、今という時代性とリアリティを問いたいんです。

―今の松山さんの作品は多文化主義のニューヨークにいるからこその作品ということでしょうか?

これだけ価値観や文化が入り混じった場所で生き続けていると自分らしさを最大限に出していかないと生き残りようがありません。作品をつくることによって僕という人格が自分自身で見えてきて、ニューヨークらしい多様性が出てきている。自分という存在とニューヨークという街の調和を測っている。作品が僕をつくってくれているんです。

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松山の美術への哲学が詰め込まれた知り合いのアーティストや骨董品のディスプレイ
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他のアーティストたちの作品も飾られているオフィス

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ポストコロナでアートが表現するリアリティは“希望”

―松山さんの作品を見ているとファンタジーやユートピアという言葉が思い浮かび、不思議な気持ちになります。どういう世界を思い描いていますか?

一見すると幻想的なのですが、リアリズムなんですよ。作品を構成する要素はそれぞれの時代や文化を象徴する産物であり、その集積です。アートは社会の転換装置だと思っています。コロナ以前はアートのリアリティは困惑や絶望を抱かせるものが一つの表現言語として強くありました。今のリアリティは絶望より希求、批判より提唱を感じさせるポジティブな印象のものが生まれているように感じます。アーティストにとって表現するということは社会への問いを生み出すということでもあります。自らの作品世界が鑑賞者に何らかの気づきをもたらすことが僕のモチベーションになっています。

―コロナを経て作風に変化はありましたか?

作品が変わることはないですが、厳しい局面も多かったので成長したと思います。コロナ禍、大きな変化の局面と思い、世界中を飛び回っていました。アーティストとしてできることは表現することなので、先行きに見通しが立たない不安定な時期でも、自分は世界中を飛び回って作品をつくることが一つの使命だと思っていました。

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オリジナルのカラーや過去に使用した色を記録するなど、オーガナイズされている。

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必要なのは継続する力、自分を信じきる力

―壁にぶつかることもあると思いますが、そうした時はどうやって突破口を見つけますか?

基本的に毎日が思考と試行の連続です。高みに近づこうとすればハードルは上がってきますが、自分に厳しくいたい。アイデアも出てこないし、苦しいと感じることもありますが、やっぱり継続することです。僕は毎朝7時にスタジオ入って、長い日は15-16時間仕事をしていますが、継続には気力と体力、そして自己管理が必要です。継続こそが力で、ニューヨークでは続けられる人しか成功にはたどり着けない。だから僕もここで挑戦したいと思ったし、そう信じてニューヨークにきました。自分を信じきる力です。

自分が日本人であり、アジア人であり、ニューヨーカーであることを誇りに思って、ニューヨークを象徴する文化の一部になりたいと願ってここに来ました。今はその一端を担えるところにいると信じています。

取材・文:菅 礼子

松山智一

アーティスト

1976年、岐阜県出身。ブルックリンを拠点に活動 。上智大学卒業後 2002 年渡米。全米主要都市、日本、ドバイ、上海、香港、台北、ルクセンブルグなどのギャラ リー、美術館、大学施設にて展覧会を多数開催。2020 年、JR 新宿駅東口広場のアートスペースを監修、中心に7m の巨大 彫刻を制作する。

松山智一

アーティスト

1976年、岐阜県出身。ブルックリンを拠点に活動 。上智大学卒業後 2002 年渡米。全米主要都市、日本、ドバイ、上海、香港、台北、ルクセンブルグなどのギャラ リー、美術館、大学施設にて展覧会を多数開催。2020 年、JR 新宿駅東口広場のアートスペースを監修、中心に7m の巨大 彫刻を制作する。