教科書で覚えた「寝殿造」と「書院造」、一体なにが違う?

  • 編集&文:石﨑貴比古
  • イラスト:田渕正敏

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日本建築史において、平安時代から中世にかけて建てられた「寝殿造」と、寝殿造をもとに室町時代から近世にかけて発達した「書院造」。その違いについて、なんとなく曖昧に記憶している人も多いのではないだろうか。知ると楽しい、「寝殿造」と「書院造」の違いについて解説する。

寝殿造

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平安貴族の邸宅として中学教育の教科書でも解説されている「寝殿造」だが、特徴を即答できる人は少ないかもしれない。なぜなら当時の建物は現存せず、貴族の日記や絵巻物から内実を推し量るしかないからだ。故に、その跡地に石碑が残る「東三条殿」の記録は、貴重な史料となっている。

東三条殿は、平安京の条坊制に基づき一町(約1万4400㎡)を基準とし、柱間は10尺(約3m)とかなり大きい。敷地中央には身舎(もや)にひさしを付けた「寝殿」が南面し、東西には「渡殿(わたどの)」と呼ばれる、いわば渡り廊下でつながれた「対屋(たいのや)」が置かれる。建物群の南側には池や築山によって山水の景観をつくる「池泉(ちせん)庭園」があり、「中島(なかじま)」が浮かぶという風雅な空間だ。

建物は天皇や貴族の在所であり、「大饗(たいきょう)」といった大規模な宴会の場となることを想定しているために、周囲に蔀(しとみ)がめぐらされる他には、固定したインテリアは置かれない。御簾(みす)や几帳、屏風、衝立のような調度によって空間を隔てることで、部屋の役割を時と場合によって変えることができる。

平安時代の初めの頃は大陸で志向されたようなシンメトリーな空間構造が保たれていた。ところが南側の入り口が形骸化し、東西の入り口が重用され、住人や客人の好みや縁起のよし悪しなどさまざまな理由から左右対称構造が崩れていく。中国では住宅でもシンメトリーが原則であることとは対照的だ。

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『類聚雑要抄(るいじゅうざつようしょう)』 © 国立歴史民俗博物館

東三条殿のように、現存しない寝殿造を復元するのに大きな役割を果たしている史料。原本は平安後期に編纂された有職故実書で、儀式の際の宴席や家具調度の舗設などについての記録である。左の図はそれを基とし、江戸時代の元禄期にいわば3Dで描き、着色されたもの。間仕切りのない広い板の間に几帳や行灯、円座といったさまざまな調度が並べられることで、宴会場となった様子がわかる。

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東三条殿 © 京都文化博物館

寝殿造の邸宅で最も有名なのが東三条殿。左の写真は復元模型。9~12世紀まで藤原氏嫡流の住まいだった。他の上級貴族の邸宅同様、左京の東北部に位置し、東西一町(120m)、南北二町強(約250m)の敷地を擁した。「年中行事絵巻」などの絵巻物にも多く描かれていて、それらを基にこの模型が復元された。建物間をつなぐ渡殿などを見れば、配置と構成に強い規範性があるのがわかる。

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書院造

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13世紀に発生した「書院造」は、寝殿造が変化したものである。貴族の経済力が低下して寝殿造の規模が縮小し、調度類が固定していくことで定式化していったと考えられる。

寝殿造では丸柱だった材木は費用の問題と道具の進化もあって角柱に変化。襖や障子といった間仕切りが発達し、床には畳が敷き詰められた。これにより、部屋ごとの機能が明確になった。書院とは本来、禅僧の居間兼書斎を意味したが、そのインテリアが固定されることで、住宅様式の名称となったとされる。床の間の類型である「床(とこ)」や、段違いの飾り棚である違ちがい棚だな、造り付けの書見台である「付書院(つけしょいん)」、裏側に警護の武士が控える「帳台構(ちょうだいがまえ)」など、そのエッセンスとディテールは現在の和室に受け継がれている。

代表的な書院造は、現在でも実物を間近に見ることができる。たとえば西本願寺の白書院は、門主の謁見場として用いられ、煌びやかな障壁画で埋め尽くされた国宝。他方、二条城二の丸御殿の大広間は、時代劇さながらに将軍が自らと諸大名との格の違いを見せつけた場所だ。

書院内部での格を知るには、その場の天井を見ればいい。大名が平伏する畳の上は通常の格天井(ごうてんじょう)だが上座に進むにつれ「折上(おりあげ)格天井」となり、さらに将軍の頭上は意匠を凝らした二重折上格天井となっている。書院造は、幕府や宗教者の権威を演出する装置であった。

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二条城二の丸御殿 © HIDEAKI TANAKA/SEBUN PHOTO/amanaimages

江戸時代、将軍が京に入る際の居館として1603(慶長8)年に築城された二条城。近世初期に成熟した書院造の好例であり、贅を尽くした大広間は将軍が諸大名の目通りを許し、身分と地位の違いを視覚的に演出する場として使われた。他にも、将軍の私的な対面場所である黒書院や、日常生活の場として用いられた白書院がある。上の写真は御殿の入り口にある車寄せで、華やかな装飾が施されている。

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西本願寺白書院 © 本願寺

西本願寺の書院は、桃山時代に発達した豪華な書院造の代表格。そのうち白書院は、門主との対面の儀式や賓客の接待に用いた場所で、国宝に指定されている。最奥に二十四畳の「一の間」があり「二の間」「三の間」と三室が並ぶ。一の間は別名「紫明の間」とも呼ばれ、付書院、床、違棚、帳台構など典型的な書院造りの設えで、格式高い折上格天井。金碧障壁画は渡辺了慶とその一派によるものが多い。

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※この記事はPen 2022年2月号「日本の建築、ここが凄い!」特集より再編集した記事です。