知られざる日本の建築史。交わることない住宅建築と宗教建築

  • 編集&文:石﨑貴比古

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建築文化における、住宅建築と宗教建築。異なるふたつの様式美が、交わることなく発展してきたのが日本建築の特徴だ。聖と俗とが織りなす建築史を、東京大学名誉教授の藤井恵介さんとともにひも解いてみよう。

~住宅建築~

紀元前1万4000年頃 竪穴式住居

①竪穴01072035358.jpg
© NOBUO KAWAGUCHI/SEBUN PHOTO/amanaimages

青森市にある日本最大級の縄文集落跡・三内丸山(さんないまるやま)遺跡(写真上)ほか多くの遺跡で竪穴式住居跡が発掘されており、復元された様子が見学できる。竪穴式住居は日本最古の建物で、紀元前1万4000年頃、縄文時代から建てられるようになったと考えられる。この遺跡に残っていたのは、直径数ⅿから十数ⅿの竪穴と深さ1ⅿほどの柱穴だった。復元では4本ないし数本の柱を立て、梁や桁、垂木を組んで茅葺などの屋根をかけ、土間の室内には、炉を設けた。

紀元前3000年頃 高床式住居

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© Alamy/amanaimages

縄文時代の後期から弥生時代にかけて建てられるようになったのが、高床式の建物。どの遺跡にも掘立柱の柱穴しか残されていないが、土器や銅鐸などに刻まれた形から往時の姿を復元できている。佐賀県の吉野ケ里(よしのがり)遺跡(写真上)では、穀物を貯蔵した倉庫や儀式に用いられた祭殿、そして司祭者のための住居としての高床式建物が復元されている。なお、伊勢神宮の建築様式「唯一神明造(ゆいいつしんめいづくり)」の原型は、高床式による米貯蔵庫だと考えられている。

7〜10世紀 庶民の住宅

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平安時代の貴族が暮らした寝殿造や、室町時代から発達した書院造に比べ、庶民がどのような住居に暮らしてきたかは定かではない。ただ、平安期の民間の風俗を描いた『年中行事絵巻』(写真上)のような史料を見ると、その一端を垣間見ることができる。庶民の住居は基本的に土間。そこに絵巻の上部に描かれているような粗末な掘立小屋のような建物が基本だったようだ。竪穴式住居の流れを汲む土間の住居の歴史は長く、江戸時代まで続いていた。

~寺院建築~

596年 飛鳥寺

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© 明日香村

日本最古の仏教寺院である飛鳥寺は、仏教を保護した蘇我馬子の発願によって596年に塔が完成した。鎌倉時代に火災に遭い、現在、日本最古の仏像「飛鳥大仏」が納められている本堂は江戸時代に再建されたものだ。上の図はCGによる復元。中央の塔を東西と北の三棟の金堂が取り囲み、全体を回廊が巡る伽藍配置は、法隆寺とは一線を画す古式のもの。唐からの影響が色濃い白鳳時代、天平時代に比べ、朝鮮半島からの影響が色濃いとされる。

730年 薬師寺東塔

⑥薬師寺KDN1120300000M.jpg© kyodonews/amanaimages

710年の平城京遷都後に建設された、白鳳時代の形を残すという建造物が薬師寺の東塔。三重塔だがそれぞれの屋根の下に裳階(もこし)と呼ばれる小さな飾り屋根があり、一見すると六重塔にも見える。2009年から史上初となる全面解体修理を行い、21年2月に改修が終了。上部を飾る、火焔のような飾りの水煙(すいえん)に施された天女の彫刻は有名で、和辻哲郎の『古寺巡礼』をはじめ多くの名著で美しい建築の代名詞として語り継がれている。

8世紀末 唐招提寺金堂

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© YOICHI TSUKIOKA/SEBUN PHOTO/amanaimages

鑑真和上が天平時代の759年に創建した唐招提寺。最も重要といえるのは、国宝である本尊以下三尊が納められた金堂だろう。奈良時代の金堂として残る唯一の建物で、建物間口7間、奥行き4間4方向に傾斜する屋根をもつ寄棟造り(よせむねづくり)。前面の一間が、壁や建具のない吹き放ちの構造になっているのが特徴である。軒を支える三手先(みてさき)と呼ばれる組物は、日本における同種の組物の原点のひとつ。

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日本における建築の歴史は縄文時代の竪穴式住居に始まる。三内丸山遺跡や吉野ケ里遺跡に残る住居跡は、煮炊きする炉を設けた土間、草葺の屋根という、我が国最初の住宅事情を物語っている。

弥生時代になると、米という貴重な作物を保管するため、高床式の建築物が発展。湿気の多い土間は保管に適していないからだ。天皇や貴族といった富裕層は、自らの住居としてもこの様式を採用。4世紀に実在したとされる女王・卑弥呼の住居も、高床式だったと考えられている。

7世紀の終わりになると、中国式の宮殿が成立することになったが、天皇の住居は依然として高床式のままだった。

平安時代に、日本独自の住宅建築が発達する。それが寝殿造だ。常設の家具のない広々とした空間は、調度の配置によってフレキシブルに用途を変えた。

時代が中世となり政治の中心が武士のものとなると、富裕化した武士や宗教者などが書院造に住むようになる。ただし、貴族や武士たちの高価な住まいとは違い、庶民や中層以下の武士は、未だ土を固めただけの土間に暮らしていた。古い住宅遺構は現代に残っておらず『年中行事絵巻』のような史料から類推するしかないが、江戸時代くらいまで、庶民は土間生活をしていたと考えられる。

一方、日本建築には住宅建築とは一線を画す寺社建築の歴史があり、両者はそれぞれ独立した発展を遂げてきた。東京大学名誉教授の藤井恵介さんはこう語る。

「寺院建築は、いまで言う宗教法人が所有している建物のようなもの。寺は仏様のための建物なので当然、大事にされるから残りやすい。西洋でも頑丈につくられた古い教会が残るのと同じです。一方、住宅は個人所有であるが故に壊れやすい。個人住宅の寿命は、短いと30~40年でしょう。加えて、寺院建築は国家にも庇護されたから、建設単価が高く、必然的に太く丈夫な材を使うことができるので長持ちします」

仏教寺院は元来、日本にはない建築物。6世紀末に仏教が伝来し、最古の飛鳥寺が建てられた。

「飛鳥寺は中国の宮殿の建築方法でつくられました。瓦葺、朱塗りの柱といった、当時の日本人は誰も見たことのない威容を誇るものです。それ以前に日本で建てられたものといえば、掘立柱に草葺の建物ばかりだったはず」と、藤井さんは解説する。

「日本の在来宗教である神道は当初、常設の建築を伴わず、祭祀のために仮屋を設けるに過ぎませんでした。本格的な建物は仏教の影響で造営されるようになった。つまり仏教建築により日本人は“超越者”がどんな場所におわしますのか、イメージできるようになったのです」

白鳳時代の薬師寺東塔、天平時代の唐招提寺金堂など、超越者への信仰が時代を超えた名建築を生んだとも言えそうだ。

藤井恵介

東京大学名誉教授、東京藝術大学客員教授。1953年、島根県生まれ。東京大学工学部建築学科卒業後、同大学院修了。密教建築の研究を通じて史学、美術史、宗教学と幅広い分野に貢献する。「平城宮大極殿」などの伝統建築復元にも寄与。石ノ森章太郎作『マンガ日本の歴史』(中央公論新社)の解説・時代考証も担当。

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※この記事はPen 2022年2月号「日本の建築、ここが凄い!」特集より再編集した記事です。