二代目中村吉右衛門、身体とこころの芸術

  • 文:細谷正人

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2021年に購入したもの。21年11月28日に逝去した二代目中村吉右衛門を約15年間撮影しつづけた、写真家鍋島徳恭氏の写真集「歌舞伎俳優 二代目中村吉右衛門」(小学館)。まるで舞台を観ているかのようで、写真から全身全霊で芝居と向かい合ってきた二代目中村吉右衛門の姿が迫ってくる。

すこし感傷的になってしまうかもしれませんが、21年11月28日に逝去した最も敬愛する歌舞伎役者、二代目中村吉右衛門への僕の想いを書いてみたいと思います。

二代目中村吉右衛門は、戦後昭和から平成、令和の歌舞伎世代交代にあたって、近代歌舞伎の古典演目を中心に立役を守り、初代吉右衛門の芸を研究し続けていました。先代の芸を凌ぐ、歌舞伎演技の最高峰を体現し、後継者への伝承にとって不可欠な存在でした。

僕は、歌舞伎を観にいく時は1人で出かけます。同世代で根っからの歌舞伎好きの友人を探すのも難しかったという理由もあるのですが他にも訳があります。僕にとって、歌舞伎を観る時間は、物語の世界に入りこんで、舞台から醸し出される時代の空気を感じながら癒される場所だからです。

日頃、ゆっくりと考え事をする時間が取れないので、歌舞伎の世界に陶酔するというよりは、今の自分の心の中にある思考と物語を照らし合わせてみたり、逆に振り返ってみたりしながら、深く考えて自分を整理していくための贅沢な時間なのです。

とりわけ二代目は、古典歌舞伎を現代人のドラマとして捉え直した台本で、僕に考えるべきテーマを与え続けてくれていました。二代目が演じる姿には、いつも現代に求められている理想の人間像がありありと表現されているのです。播磨屋の芝居を見終わった帰路で、僕は新しい難問を提示されたような気分になります。

例えば、熊谷直実であれば「自分だったらどうしたのか」「自分ならどう思うのか」と自分に置き換えてみます。そして、その答えが知りたくて、また同じ演目を観に出かけようかなという想いになります。こうして幼少期の頃から約30数年近くも歌舞伎を観続けていると、なぜ歌舞伎が好きなのかその理由を考えます。

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おそらく、映画も小説も同様ですが、僕は物語そのものに陶酔するのではなく、見えている物語に自分の物語を置き換えて、自身の生き方を見つめ直しているのでしょう。だから、生きてゆく中で、人は何かしらの物語を心の拠り所にするのかもしれません。

さらに、世阿弥が能楽論書で述べたことばに「離見の見(りけんのけん)」があります。これは僕の座右の銘でもあるのですが、演者が自らの体を客観的な目線で離れてみることが大切で、あらゆる方向から自分自身の演技を見る意識のことを言います。これも歌舞伎にとって重要な心得の一つです。心の目を観客の目の位置に置いて、完璧を追求することが大切であるという教えです。

反対に、自己中心的な狭い見方は「我見(がけん)」といい、これによって自己満足に陥ることを厳しく戒めています。「離見の見」はまさしく現代人が求める利他の心に通ずるものがあります。能楽とともに、歌舞伎が永くあり続ける理由は、この「離見の見」が芸の礎となっているからでしょう。

さらに二代目は、播磨屋の芸を伝える中で必ず「性根」を大切にしていると言います。「役者は、役の性根や精神を舞台通してお客様に伝え、理解して頂くことが大切だと思うんです。」と朝日新聞の記事でも語っています。見つめる側に予備知識を求めず、ものの本質を捉えて人の心を揺り動かすためには、そのものの考え方や言動のもととなる心の持ち方が全てだという意味です。型を超越して気持ちを伝えるという教えは、自分の仕事でも最も大切にしていることです。

僕は、二代目の芸から役柄の性根を感じ取ることができた瞬間、心に何かが響き、思わず熱いものが込み上げてきます。しかし決して分かり易いものではなく、自分でも知り得なかった心の奥の何かに触れて、沁みてくるのです。二代目の芝居は、不意に涙がぽろりと落ちてきてしまうのですから不思議なものです。

そんな心を揺り動かされる体験が、また劇場で二代目を観たいなあと思わせてくれました。この癖になる沁み渡る感動が約420年続いてきた歌舞伎の本質です。そして二代目のように、身体とこころの芸術に生涯をかけ探求している役者の姿をみていると、本当に“よい”ものとは、淡くてうっすらと心の中だけで漂いつづけてくれるものなのではないかと感じます。

一方で、日々の仕事の中では、ついつい記憶や感情に突き刺さるような安易な手段を探してしまいがちです。“よい”ものは、日々努力し、探求し続けていれば、必ずいつの日か現れてくれるかもしれない。舞台芸術のように心の中に消えては現れてくるような、儚いものなのかもしれません。決して、永遠であり続けるものでもないのです。

二代目中村吉右衛門の芝居を観ることが出来なくなってしまった今、その身体と心の芸術は残りません。これからはこの写真集を眺めながら、二代目中村吉右衛門の至芸を思い出し、僕の胸の中にあたたかく残っているを記憶を響かせて、楽しみたいとおもいます。

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箱ケースから取り出すと一枚一枚広げながらじっくり堪能できるように、あえて綴じない「綴じなし製本」で作成されているのも魅力的。

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『一谷嫩軍記 熊谷陣屋』の熊谷直実、『菅原伝授手習鑑 寺子屋』の松王丸、『仮名手本忠臣蔵』 大星由良之助など、20の演目と当たり役について自身の想いや秘話、初代の教えなどを記し、別冊芸談集としてまとめられている。

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細谷正人

バニスター株式会社 代表取締役/ディレクター

NTT、米国系ブランドコンサルティング会社を経て、2008年にバニスター(株)を設立。P&Gや大塚製薬、オムロンなど国内外50社を超える企業や商品のブランド戦略とデザイン、社内啓発まで包括的なブランド構築を行う。著書には『ブランドストーリーは原風景からつくる』『Brand STORY Design ブランドストーリーの創り方』(日経BP)。一般社団法人パイ文化財団代表理事。法政大学大学院デザイン工学研究科兼任講師。

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細谷正人

バニスター株式会社 代表取締役/ディレクター

NTT、米国系ブランドコンサルティング会社を経て、2008年にバニスター(株)を設立。P&Gや大塚製薬、オムロンなど国内外50社を超える企業や商品のブランド戦略とデザイン、社内啓発まで包括的なブランド構築を行う。著書には『ブランドストーリーは原風景からつくる』『Brand STORY Design ブランドストーリーの創り方』(日経BP)。一般社団法人パイ文化財団代表理事。法政大学大学院デザイン工学研究科兼任講師。

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