1969年、思えば音楽も深夜ラジオも熱かった

  • 文:小暮昌弘

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『1974年のサマークリスマス 林美雄とパッックインミュージックの時代』(集英社文庫 柳澤健著)。この本は『小説すばる』での連載を一冊にまとめたものだが、その連載のことを林さんとTBSに同期入社した久米宏さんのラジオ番組で知った。一冊は『小説すばる』を購入したが、その後は続かず、今回の文庫化でまとめて読むことができたが、読み応えある一冊。

先日、映画『サマー・オブ・ソウル(あるいは、革命がテレビ放映されなかった時)』を公開前に観る機会を得た。この映画についてはPen Onlineで記事を書かせていただき、音楽にも詳しいスタイリストの井藤成一さんとPen Onlineのポッドキャストでも話させてもらった。作品をご存知ない方のために映画の内容について少し触れておこう。

この映画は1969年の夏にニューヨークのハーレムで開かれた「ハーレム・カルチュラル・フェスティバル」を収録したドキュメンタリー映画。スティーヴィー・ワンダー、B.B.キング、スライ&ザ・ファミリー・ストーン、ニーナ・シモンなど、当時の人気黒人ミュージシャンが揃って出演したフェスであったが、それを記録した映像はいままで誰の目にも触れることなく、倉庫に眠っていた。奇しくもこのフェスが開かれた1969年の夏は同じニューヨークで「ウッドストック・フェスティバル」が開かれていた。“ブラック・ウッドストック”と撮影者が名付けた幻の音楽フェスがついに我々の目の前に明らかになる。こういった作品だ。

やはり問題になるのは1969年という年。

Pen Onlineの私の記事では、この年の夏にニューヨークを訪れていたイラストレーター小林泰彦氏のインタビューも紹介しているが、氏によれば、この時期(正確には65年から70年)アメリカがいちばんホットで、映画のタイトルではないが、大きな意識革命が起こった時期でもある。

では1969年、私はなにをやっていただろうか。

なんにでも興味旺盛な年頃だったが、まだ中学生。しかし映画『サマー・オブ・ソウル』で演奏される曲やミュージシャンの名前には聞き覚えがあった。なぜなら毎晩のようにラジオで聴いていたからだ。でも曲名やミュージシャンをノートに書き留めておくことがせいぜい。お金がないからレコードはなかなか買えない。テープレコーダーなんてもっていないから、気に入った曲がラジオから流れるのもただただ待つ。私の十代における音楽事始めはそんな感じだった。

最近、購入して、一気読みした本がある。『1974年のサマークリスマス 林美雄とパックインミュージックの時代』(柳澤 健著 集英社文庫刊)という本だ。

「パックインミュージック」とは、67年7月から82年の7月までTBSラジオで放送されていた深夜ラジオ番組。スタート時は知らなかったが、中学生になると私も「パックインミュージック」を聴いていた。番組は1部と2部に分かれており、1部は午前1時に、2部は3時に始まる。同書によれば2部は69年5月に始まったと書かれている。つまり「ハーレム・カルチャラル・フェスティバル」が開かれていた頃、私は深夜放送を含む、いくつかのラジオ番組で映画に登場する海外のヒット曲を覚えたと思われる。

しかし私が熱心に聴いていたのはTBSの「パックインミュージック」ではなく、ニッポン放送の「オールナイトニッポン」だった。「オールナイトニッポン」はTBSよりも早く67年に放送を開始した番組。担当のアナウンサーをディスクジョッキー(略してDJ)と呼ぶくらいたくさんのヒット曲をかけながらリスナーからの手紙を読む。そんな構成の番組だった。当時、この番組の木曜日を担当していた局アナのIさんが地元に住んでいて、「学校新聞の取材です」と大ウソをついて不躾にも自宅まで友人と訪ねたことがある。Iさんは我々の拙い取材に付き合ってくれたばかりか、帰りに部屋に高く積まれた試聴版シングルレコードを指差し、「どれでも好きなものを」と言われ、各々一枚ずつもらった。曲名は忘れたが、流行っていた洋楽のレコードをもらった覚えがある。

一方、「パックインミュージック」でよく聴いていたのは金曜の「ナチチャコパック(ナッチャコと呼ぶ人もいる)」だ。アラン・ドロンの吹き替えで有名な野沢那智と同じく声優の白石冬美がパーソナリティ(一説によれば、69年頃からディスクジョッキーをパーソナリティと呼ぶようになったという)のふたりが担当。「お題拝借」と名付けられたリスナーからの便りを読む野沢那智の喋りは本当に見事。相手をする白石冬美との掛け合いも素晴らしい。2時半を過ぎて読まれる「最後の手紙」は本当に感動ものだったことを覚えている。しかしこの「ナチチャコパック」はふたりの会話や手紙の紹介がほとんどで、曲が数曲しかかからない。それでヒット曲や注目曲を知るために、金曜日以外は「オールナイトニッポン」や文化放送の「セイ!ヤング」に浮気することも多かった。

文庫のタイトルにある林美雄はTBS所属のアナウンサーで「パックインミュージック」は、金曜日の「ナチチャコパック」の後の2部を1970年6月5日から担当していた。74年に一度担当を降りた後、75年からは水曜日の1部を担当している。たぶん私が林さんの番組(マニアは林パックと呼ぶ)を聴いたのは2部担当の頃。「ナチチャコパック」の後にそのまま聴いていたが、若いとはいえ深夜。途中で寝落ちしていたように思う。

「林パック」は、海外のヒット曲や注目曲が主流であった深夜放送にあって邦楽や邦画を紹介する、当時としてはかなり異色の深夜放送だった。「林美雄はただひとり“外国のものが善”というコンプレックスからも、“売れているものが善”という資本主義からも自由な存在だった。林美雄は、自分が素晴らしいと心から思えるものだけを番組で紹介した」とこの本に書かれている。

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1974年にリリースされた『MISSLIM』。早くからユーミンは聴いていたが、アルバムを買ったのは3枚目の『COBALT HOUR』から。しかもレコードだったので、いまは手元にない。改めて『MISSLIM』をCDで購入したが、本当に名曲ばかり。本書にはアルバムに収録されている曲のほとんどは彼女が10代でつくったと書かれている。林アナに捧げた『旅立つ秋』は、最後に収録されている。

同書には、当時まったく売れていなかった荒井由美(現在の松任谷由美)の「ベルベットイースター」を1年以上にわたってかけ続け、石川セリや桃井かおり、荒木一郎、頭脳警察などマニアックな人たちの歌を次々と紹介した。また邦画も、小津安二郎や溝口健二といった有名な作品は一切扱わず、藤田敏八監督の『八月の濡れた砂』、澤田幸弘監督の『叛逆のメロディー』、黒木和雄監督の『竜馬暗殺』、あるいは日活のロマンポルノやATG系の隠れた名作を次々と紹介した。

「いいものはいい」

「いいものは人知れず埋もれている」

それが林さんの信条だったとこの本は書く。

私も早くから荒井由美や石川セリを聴いていたが、もしかしたら彼女らの曲を初めて聴いたのは、「林パック」だったかもしれない。74年に「林パック」が終了することが番組内で発表されると、リスナーから番組続行を求める署名が1200名分も集まり、局側に届けられたという。また荒井由美のセカンドアルバム『MISSLIM』に収録されている『旅立つ秋』は彼女の名前を広めてくれた林さんに捧げたもので、74年の最後の番組が始まる前に少し前にユーミン自らテープを届けたものだという。

74年というと私もまだラジオで深夜放送を聴いていたと思うが、そんなことが番組の裏で起こっていたことはまったく知らなかった。しかし、当時のラジオは自分に新しい知識を与えてくれる唯一ともいえるメディア。音楽も、映画の情報も、あるいは流行も、すべてラジオから吸収していた。当時のラジオがなかったらいまの私はなかったかもしれない。

小暮昌弘

ファッション編集者

法政大学卒業。1982年から婦人画報社(現ハースト婦人画報社)に勤務。『25ans』を経て『MEN’S CLUB』に。おもにファッションを担当する。2005年から07年まで『MEN’S CLUB』編集長。09年よりフリーランスとして活動。

小暮昌弘

ファッション編集者

法政大学卒業。1982年から婦人画報社(現ハースト婦人画報社)に勤務。『25ans』を経て『MEN’S CLUB』に。おもにファッションを担当する。2005年から07年まで『MEN’S CLUB』編集長。09年よりフリーランスとして活動。