もうすぐ2021年の土用丑の日。馴染み深いうなぎ料理「蒲焼き」「うな丼」「うな重」は、いったいどのようにして生まれたのだろうか。過去の記述をもとに、変化の流れを追っていこう。
【蒲の穂焼き】始まりは、丸ごと串に刺してシンプルに。
“石麻呂に われ物申す 夏痩せに 良しといふ物ぞ 武奈伎 取りめせ”とは、万葉を代表する歌人大伴家持が詠んだ一句。うなぎの滋養強壮作用が古来広く知られていたことがわかる。
当時、平安貴族はうなぎを白蒸しにして塩で食べていたようだが、庶民はおそらく他の川魚のように丸ごと串に刺し長いまま焼いて食べていたのだろう。いまではこれを「蒲の穂焼き」と呼ぶ店もあるが、当時はそのかたちが蒲の花穂に似ていることから蒲焼きと呼んでいたそう。『大草家料理書』(室町末期)に「宇治丸かばやき事。丸にあぶりて後に切る也。醤油と酒と交て付る也」と記されていることからもうかがえる。
【蒲焼き】割きに焼き、調味料の生産で確立した完成形。
江戸時代初期までは、まだうなぎの丸焼きをぶつ切りにした昔ながらの蒲の穂焼きが、割いて焼くスタイルに変わり始めるのは、元禄時代前後からといわれている。江戸中期の茶人遠藤元閑の『茶湯献立指南』では蒲焼きの調理法について、うなぎを背開きにし串を2本刺して焼く方法が紹介されており、17世紀後半には既に割いたうなぎの蒲焼きが売られていたようだ。
うなぎ屋が増え始めるのもこの頃で、タレで味付けするようになるのは18世紀以降。江戸近郊の野田や銚子で醤油が生産され始めてからで、それまでは酢や山椒味噌などで調味していたようだ。そして、現在と変わらぬ蒲焼きが完成するのは19世紀前半。
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【付け飯】飯のおかずになり、下戸も食べられるように。
江戸時代まで、蒲焼きは酒の肴で、蒲焼き屋では飯を出してはいなかったようだ。が、18世紀後半になると、“付け飯”と称して飯を一緒に出す店が現れる。安永から天明にかけて、絵双紙のひとつ黄表紙『女嫌変豆男』(1777年)に描かれた蒲焼き屋の行灯看板には「江戸前 大蒲焼 つけめしあり」と書かれており、蒲焼きが酒肴から飯のおかずへと変わっていったことが忍ばれる。
付け飯はお櫃で運ばれ、各人が茶碗によそい、串付きのまま皿に盛られた蒲焼きとともに食べていたようだ。付け飯が生まれたことで、女、子どもや下戸など客層も広がり、19世紀初頭には237軒を超える蒲焼き屋が江戸の町にひしめいていたそうだ。
【うな丼】蒲焼きが冷めぬようにと、生まれた最初の丼物。
うな丼誕生のエピソードで最も有名なのが、大久保今助なる人物のアイデアによるものという説である。慶応元年に書かれた宮川政運の『俗事百工起源』によると、江戸三座のひとつ中村座のスポンサーだった大久保今助が、芝居小屋まで大好物の蒲焼きの出前をとる際、蒲焼きが冷めないようご飯に挟ませたのがうなぎ飯=うな丼の始まりだったらしい。文化年間(1804〜18年)のことで、他にも諸説あるものの、この今助によってうなぎ飯がメジャーになっていったことは事実のようだ。
文政年間(1818〜30年)にはうなぎ飯を出す店も現れ、天保7年(1836年)に、葺屋町の「大野屋」がうなぎ飯を64文で売り出し大ヒット。かくしてうなぎ飯は江戸っ子に人気を博し、丼物の先鞭をつけることになる。
【うな重】世間に定着した、お重に詰めたスタイル
蒲焼きを初めて重箱に入れて出したのは、創業220年になる赤坂の老舗「重箱」の初代儀兵衛だといわれている。だが、同店ではお重に入るのは蒲焼きのみでご飯は別添え。蒲焼きの付け飯として出されるゆえ、いわゆるうな重とは異なる。
飯と蒲焼きをともにお重に詰めた記述としては、尾張藩士の石井八郎による『損者三友そんしゃさんゆう』(1798年)に見ることができる。“いつも角力(相撲)を見に参ります時は、小重へ飯をつめ、其間へかばやきを入、又飯を入、又かばやきを入、めしを入れて蓋をぐつとつよくして〜”。で、まさに中入れうな重。明治元年版『歳盛記さいせいき』にはうな重の名が見え、この頃にはある程度ポピュラーになっていたようだ。
この記事は、2019年 Pen1月15日号「江戸前の流儀。うなぎ/天ぷら/鮨」特集よりPen編集部が再編集した記事です。