認め合う音楽家の関係は、亡くなる直前まで続いた。──細野晴臣が語る、大滝詠一との軌跡。

  • 文:柴 那典
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「ポップスという美女に恋した兄弟のよう」と語る音楽家同士の関係はいかにして育まれたのか。細野晴臣と大滝詠一、ふたりの軌跡を巡る。

日本のロックとポップスの立役者、細野晴臣。彼にとって、大滝詠一は数少ない盟友と呼べる存在だ。出会ったのは1968年。はっぴいえんどの結成前、お互いにまだ誰でもなかった頃のふたりを結びつけたのは、ポップスへの深い知識と憧憬だった。

「印象深い初顔合わせでした。彼がぼくの家を訪ねて来て、部屋に入って来るなり、飾ってあったシングル盤を見て、挨拶なしにいきなりその曲名を言いました。『お! ゲット・トゥギャザー!』と。その頃、ヒットしていた歌です。その時になかなかの使い手だと感心しました。黒澤明の『七人の侍』に同じようなシーンがあったのを想い出したのです。そんな関係はその後もずっと続きました」

3枚のアルバムを残して、はっぴいえんどが解散した後も、ふたりは互いに認め合う同志だった。細野は大滝の楽曲をこう評する。

「ソロの曲として、さすがだと思ったのはCMの『Cider』のシリーズでしたが、深く影響し合っていた頃のアルバム『ナイアガラ・ムーン』には『負けた』とうめきました。特に『ハンド・クラッピング・ルンバ』と『恋はメレンゲ』『福生ストラット』は好きです。50〜60年代の引用が的を射ているだけでなく、世界標準を超えていて、誰も超えられない豊かさがあります」

細野はベーシストとして大滝詠一の数々のソロ作品にも参加。その方向性にも大きな影響を与えた。『ロング・バケイション』に参加したのは、世界進出を果たしたYMOの一大ブームにより多忙な日々を過ごす最中でもあった。

「プレイヤーとして楽しく演奏したのは『ナイアガラ・ムーン』でした。当時はプレイヤーの絶対数も限られた時代で、知らない人と演奏することはなかったと思います。大滝君がやりたいことはみな共有していて、(一応用意されていたとは思いますが)譜面も必要がなかったのです。福生のスタジオも当時自分が住んでいた狭山のハウスと同じ雰囲気で、仕事をしているという気持ちは一切なく、遊んでいた感覚です。とはいえ、演奏のよし悪しには厳密でしたが。ちなみに『ロンバケ』は『次は自分の番』だと、ぼくに意気込みを宣言したアルバムでした」


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細野とは立教大学時代からの旧友、写真家・野上眞宏の写真集『SNAPSHOT DIARY: TOKYO 1970-1973』より抜粋。日本のロック・ポップス黎明期にあたる1970年代初頭、その中心人物である細野と大滝の姿を記録。写真提供:野上眞宏

ポップスに恋をした、似ていて非なる兄弟関係。

細野は大滝との音楽家としての共通点とその違いを、こう解説する。

「共通しているのは、自分が聴いてきた素晴らしいポップスにとことんこだわるところでしょうか。単に再現するのではなく、そのエッセンスをいただき、自分のものにして作品にしないと気が済まない、という性分です。ポップスという美女に恋した兄弟のようなものかも。ただ、インプットは似ていますが、アウトプットはまったく別の世界を表現していると思います。やはりそれは大滝君が歌手であること、そして自分がプレイヤーであることにも関係していたと思います。つまり大滝詠一の核は『歌』で、自分が歌える歌をシンガーとして作曲していたのです。プレイヤーだった自分との大きな違いかもしれません。しかしいまはぼくも歌える歌をつくるようになりました」

2013年12月、大滝は逝去する。その直前、細野は新たなソロ作品の制作を持ちかけた。敬愛し合う音楽家同士の関係は、最後まで続いていたのだ。

「大滝君がなかなかソロ・アルバムをつくらなかった時期で、彼を訪ねるという知人に伝言を託しました。『なんでもやるからつくろう』と。で、その返事がこれも伝言で届きました。『細野流の挨拶』だと。もう少しで実現するはずだったのに、残念で仕方ない。名盤ができたに違いないのです」