シティポップの名盤、大滝詠一『ロング・バケイション』(以下、 ロンバケ)の発売から40年が経ったいまも、そのエバーグリーンな輝きは増すばかりだ。ここでは作詞家・松本隆に大滝とともに作品を世に生み出した"当事者"として、改めて時代を超えて愛され続ける金字塔の魅力について考えた。
※こちらはPen 2021年4月1日号「大滝詠一に恋をして。」特集よりPen編集部が再編集した記事です。
アルバム『ロング・バケイション』を映画にたとえるなら、大滝詠一はいわば、監督であり、主演である。そして脚本にあたる役割を松本隆が果たした。1973年9月21日のはっぴいえんどのライブを最後に、ふたりが会ったのはただ一度きり。大滝のラジオ番組『ゴー! ゴー! ナイアガラ』に松本がゲスト出演した時だった。そんなふたりが、作詞家と作曲家として再び顔を合わせる日が訪れた。
「最初、大滝詠一は自分で運転して、僕が当時住んでいた、たまプラーザまで来てるの。でも、彼の記憶から抜けてる(笑)。松本の家には行ったことがない、って。大滝さんから『話がある』って電話がかかってきたけど、道がわからないと言うから、いちばん近い東名高速の川崎インターの出口まで僕がクルマで迎えに行った。はっぴいえんど時代、大滝さんは運転免許証を持ってなくて、いつも助手席か後ろの席。僕か細野(晴臣)さんが運転してた。だから大滝詠一が自分で運転して、はるばるドライブして来るってことが、目から鱗だった。夜だったね、大滝さんが僕の家に来たのは」
はっぴいえんど解散後、大滝は斬新な CM ソングを増産しながら、アーティストとしても自身のレーベル、ナイアガラから『ナイアガラ・ムーン』、『ナイアガラ・カレ ンダー '78』など名盤を多く発表。残念ながら大きなセールスに結びつくことがなかったが、いまもなおカルト的な支持を得ている。一方で、職業作詞家としてヒット作を連発する松本に向かって大滝は、ストレートに「売れたい」というメッセージを松本の自宅で伝えた。松本は当時、気に入っていた J・D・サウザーの「ユア・オンリー・ ロンリー」をステレオで大滝に聴かせ、「こういうAORっぽい、お洒落な音楽つくったら」と、プレゼンしたと話す。
「2回目に大滝さんと会った時、彼が画集 (CBS・ソニー出版から年刊のイラストブック『ロンバケ』)を持ってきて、永井博さんのイラストを見せつつ、『こんなテイトにしたい』と提案されて。僕の中ではこういう南国シリーズは、鈴木茂の『ラハイナ・ガール』( 年の『テレスコープ』収録)が最初。もとは細野さんの『トロピカル・ダンディ』から来てるのかも。茂の『ラハイナ』は、ほぼ『ロンバケ』に近い。成功するカギは持ってたのかもしれない」
しかし、いざ『ロンバケ』の作詞に取りかかろうとするタイミングで、松本は最愛の妹を亡くした。生まれた時から心臓が悪く、3ヶ月しか生きられないと医者に言われていた彼女を通して、松本は「死」というものを毎日、意識せざるを得なかった。 兄として彼女を守ることと、両親の愛情がすべて妹に注がれること、そんな微妙な環境で育った松本。自身の精神の熟成が「普通の人とだいぶ違ってきた」と話す。
「もう大滝詠一とか、『ロンバケ』どころじゃなくて。すべての仕事を断った。すごく長い期間、そうなっていた記憶があるんだけど、あとで数えたら3ヶ月くらいだった。 これは困ったな、と。大滝さんにも『書けない』と電話したんだよね。そしたら『このプロジェクトは松本隆の詞ありきだから、書けるようになるまで、いつまでも延ばすから』と言われた。そういう意志は固いんだよ、あの人は」
少年と青年の間みたいな、 18歳くらいをイメージして書いた
リリース予定日の重要性を説明するまでもない。まして、大滝にとって移籍したばかりの新しいレーベル。当然、セールスの実績もない。「歌詞を待つ」という大滝の強い言葉に押されて、松本はペンを走らせた。最初に書いたのは「カナリア諸島にて」、次が「君は天然色」。この2曲でアルバムのゴールまで〝見えた〞という。『ロンバケ』の表面的なムードは、リゾート地のラヴストーリーに近い。実際に「カナリア諸島にて」の風景はそうしたイメージをもちつつも、その中にいる男は生きることの意味を見失ってしまったような、諦観に満ちている。作者の意識の投影が、眩いばかりの景色の中に小さな影を落とす。それは「君は天然色」の後半、〝小指から流れ出す虹の幻〞の奇跡的なフレーズにも感じられる。聴くたびに想像力がハレーションを起こす。それは〝風をあつめて 青空を駆けたいんです〞であり、〝魂に銀河 雪崩てく〞と同じく、松本がこれまでに幾度となく起こしてきた歌詞の中の奇跡である。『ロンバケ』の製作時期は、ちょうど大滝詠一が30歳になった頃。松本は〝歌手〞の年齢を意識したのだろうか。
「少年と青年の間みたいな、18歳くらいをイメージして書いた。30過ぎのおじさんが歌うには恥ずかしいかもしれない詞を書くよ、って大滝さんに話した。ほぼ同時期に南佳孝にも書いていたけど、あのハードボイルド路線は大滝さんには合わない。もっと甘いんだよね。作詞の背景には、先の(永井博の)イラストのイメージがずっとあった。あれがなかったら、もっと難航したかもしれない。(『ロンバケ』のジャケットを指差して)この「白いパラソル」は松田聖子に行っちゃう(笑)。僕の詞はすべて有機的に連鎖していくの」
松本隆は、歌手としての大滝詠一の魅力をどう捉えているのか。
「まず声がいいよね。でもギターは得意じゃなかったけど(笑)。僕は編み物するみたいに言葉で光と影を操る。それに歌で反応するんだよね。(作家としての共作に関して)大滝さんはシンプルなの。他人に書く時は詞が先で、自分が歌う時には曲が先。はっぴいえんどはすべて詞が先だった。そういう意味では、(自分が歌っているにもかかわらず)大滝さんにとって、はっぴいえんどは他人だったんだよ。僕にとっては「詞先、メロ先」はどちらも関係ない。同じようにできちゃうから。『ロンバケ』は、音も好きだったし、まったく無理なく書けた」
シティポップって言われると違和感がある。昔から都会的な音楽をやっているから
ここ数年、国内外の熱心なリスナーを中心に日本の70年代〜80年代を中心としたアーバンなポップスを評価するシティポップ・ブームが巻き起こっている。その背景をたどると、最重要作として挙げられるのが、大滝詠一と松本隆が生み落とした『ロング・バケイション』だ。日本の音楽シーンから生まれた独自の文化遺産はインターネットを通じて日々、拡散されている。それは水滴が湖面に落ちて円状に波打ち、じわじわと広がるように、いまや世界規模で拡大。その流れが、再び日本の若いリスナーにもフィードバックされている。そうした状況を、松本はどう捉えているのだろうか。
「昔、ニュー・ミュージックって言葉が出てきた時に、なんか違和感があったように、いまもシティポップと言われるとヘンな感じもするけどね。都会的な音楽といえば、はっぴいえんど時代からやってるし。「しんしんしん」とか「風をあつめて」とか。その頃のことはさ、『宝島』って雑誌が『ワンダーランド』っていう名前だった頃に文章にしてる。はっぴいえんどにしても、日本語のロックやりますって、宣言してからつくってるってところが他の音楽と違うよね」
雑誌『ワンダーランド』(通巻2号=73年9月号)の「なぜ『風街』なのか」と題された文章には、「都市音楽を楽しむためにはナイフの切っ先のように鋭い眼差しが必要だ」という一節がある。シティポップに対する松本の考えは、既にはっきりと示されているのだ。発売から40年。作品の中にある言葉を手がけた松本隆はいま、どんな感慨をもって『ロング・バケイション』という偉大な作品を振り返るのだろうか。
「『ロンバケ』は、なにかの中心を"突いた"んだろうね。僕も、大滝さんも意図せず、普遍的ななにかを。どストライクでピンポイントの。僕は普遍的なものをいつも追求しているんだけど、ここまで計算はできない。文化とか経済とかがピークを、峠を越したんだと思うんだよね。みんな、もう、それほど新しいものを欲しがってないんじゃないかな。実際、新しい技術も出てこないし。科学とか技術とかの限界があって、そういうものを通り越して、こういう『ロンバケ』への憧れが残っているんじゃないかな。長い休暇。必死に働いてもしょうがないという。いまのコロナってのもさ、神さまが人類にそんなに働かなくっていいよ、って言ってるのかもしれない」