魂震える歌舞伎体験、公演中の市川猿之助が語る『日蓮ー愛を知る鬼(ひと)ー』

  • 写真・文:藤井麻未 
  • 提供写真:松竹(株)
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不穏な靄が立ち込める、夜更けの比叡山延暦寺。緊迫感に包まれた冒頭から途端に観客を惹き込むのは、現在公演中の歌舞伎『日蓮』だ。その内容は、仏教を扱いながらも、ありがちな宗教説話とは非なるもの。燃える情熱と深い慈愛を持ち合わせた若き僧侶の生き様は、観る者の魂をも震わせる。主演・演出を務める市川猿之助に話を伺った。

公演について語る市川猿之助。©松竹(株)

理想に燃える若き日蓮、その源流


日蓮は、千葉県安房小湊の漁師の家に産まれた。幼名を「善日丸(ぜんにちまる)」という。幼い頃から頭のよかった善日丸は、近くの天台宗寺院・清澄寺に出され、仏道修行や学問の習得に励んだ。16歳で出家した後は名を「蓮長(れんちょう)」と改め、当時最先端の学問が集まる比叡山へと遊学する。しかしそこで目の当たりにしたのは、あらゆる疫病、災害、争乱に苦しむ人々を救うことのできない僧侶たちの姿であった。

この世に存在するすべての経典を学び尽くし、辿り着いた答えとは・・・苦しむ人々を前に苦悶する蓮長は、やがて「日蓮」と名を改め法華経流布に生涯を捧げる決意をする。市川猿之助主演・演出、横内謙介構成・脚本・演出による今作品は、理想に燃えて比叡山をあとにするまでの若き僧侶の心の葛藤を鮮やかに描く。

澤瀉屋 四代目 市川猿之助(いちかわ・えんのすけ)●立役から女方まで幅広く活躍。スーパー歌舞伎の創始者である伯父・猿翁のパイオニア精神を受け継ぎ、スーパー歌舞伎Ⅱ『ワンピース』をはじめ類まれなるプロデュース力を発揮。確かな実力と並外れた身体能力で、最も目が離せない花形歌舞伎役者のひとりである。活動の場は歌舞伎だけでなく、2020年には日曜劇場『半沢直樹』(TBS)で伊佐山泰二役を務め熱演が話題に。映画『ザ・マジックアワー』TVドラマ『龍馬伝』(NHK)『JIN-仁-』(TBS)等、数多くの作品に出演している。©松竹(株) 
市川猿之助扮する蓮長後に日蓮。©松竹(株) 

公演中盤を迎え、連日舞台に立つ猿之助は客席からの確かな熱量を感じ取っているようだ。

「お客様は、物語に集中して頂いているなと感じています。今回は古典の歌舞伎と違って、見得があって、拍手があってというものとは違います。その分なのか、お客様が聞こうとなさっているのがよくわかります」

日々舞台をやっていくなかで細かな手直しは欠かさず、現場レベルで常に改良が加えられてゆくという『日蓮』。幕が開いた瞬間から、観客は熱を帯びた眼差しで終始舞台に釘付けになる。その秘密はなんなのか。猿之助本人の言葉から、歌舞伎『日蓮』の魅力を紐解いてゆく。


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芝居として"フィクションであること"を大事にした

歌舞伎座『日蓮』特別ポスター。©松竹(株)

日蓮は比叡山を降りた後、さまざまな困難に見舞われ何度も命を落としかけている。その度に超人的なパワーでこれらを乗り越え人々を導いてきた。語り継がれるドラマティックな場面が沢山あるにも関わらず、今回はこれまであまり注目されてこなかった修行時代の「蓮長」をテーマとしている。

「ひとつには、皆さんがあまりご存知ない日蓮聖人を知ってほしかったということ。日蓮聖人の青年期、蓮長を名乗っていた修行時代、比叡山で籠っている時代が取り上げられることが少ないので、そこを描きたかった。あまりご存知ないということは、歴史的に事実がはっきりとしているところに比べ、お芝居をつくる上で想像力が働きます。創作を入れる余地があるということです。歴史や歴代上の人物を題材にはしていますが、フィクションであるということを大事にしたいと思っています」

死人を始末する賤女おどろが赤子を抱いて生への希望を見出すエピソードや、比叡山延暦寺を開いた伝教大師最澄が登場するクライマックスなど、史実を軸としながらも、芝居ならではの想像力、「フィクション」としての芝居の楽しさを味わうことができるのは、こうした意図があってのことだ。


言葉で魅せる歌舞伎

左より、蓮長後に日蓮=市川猿之助、成弁(後に日昭)=中村隼人。©松竹(株)

歌舞伎というと、まずは古い言葉や前提知識を知らなければ言っていることがわからないのではないか。そのうえ仏教をテーマとしているのでは万人に理解するのは難しいのでは。おそらくこう思う方は少なくないだろう。しかし、その心配は無用だ。

「感染症対策の面で大掛かりなスペクタクルを封じた分、今回は会話、言葉を中心にした芝居にしました。そこを見てほしい」

今回は澤瀉屋の得意とする宙乗りや早替り、立廻りといった派手な演出がない分、言葉で魅せる芝居となっている。歌舞伎初心者にもわかりやすい言葉選び、聴く人の魂に訴えかけるような力強く、そして心に沁みる言葉が非常に印象的だ。ひとつ一つの台詞や役柄の心情が浮き立ち、心温まる見事な感動作となっている。


宗教説話ではない、誰もが腑に落ちる作品に

蓮長後に日蓮=市川猿之助。©松竹(株)

「宗教の芝居だと敬遠される方も多いと思いますが、誰もが見て楽しめる、腑に落ちる作品にしたかったというのがいちばんです。お芝居的にはわかりやすくつくっていますので、題字から受けるイメージに捉われることなく、まっさらな気持ちで観て頂けると嬉しいです」

今作品は、日蓮宗や法華経を信仰している者のみに向けた芝居ではない。したがって、難しい仏教用語や前提知識、信仰の有無は必要なく、誰もがしっかりとメッセージを受け取ることができる。

「わずか一時間の上演時間、喋っていることは大事なことしか言っていません。蓮長以外も皆、重要なことしか喋っていない。喋っている内容をきっちり伝えないといけません。仏教知識がない人でも楽しんで頂けるようにするために台本づくりから苦労しました」

コロナ禍で限られた時間の中でも、誰もが楽しめ腑に落ちる芝居にしたい。そんな想いが伝わる内容だ。


作劇法による二面性の描写

左より、阿修羅天=市川猿弥、善日丸=市川右近、賤女おどろ=市川笑三郎、蓮長後に日蓮=市川猿之助。©松竹(株) 

芝居全体を通して、猛々しい阿修羅天と、まだあどけなさの残る善日丸が登場する。これは、蓮長の心の中に潜む情熱漲る激しい部分、慈愛に満ちた優しい部分とを表したものである。

「芝居づくりとしては、蓮長の心の中の二面を、猿弥さんの阿修羅天、(市川)右近さんの善日丸の二人に託しています。横内先生の見事なアイデア、作劇法です」

日蓮は、法華経こそが最高の経典だという結論に至った後、他宗を誹謗すらするほどの激しい情熱をもつ人物だったという。一方で、残された御消息(手紙)からは、生まれ持った優しさ、慈愛に満ちた人物像も浮かび上がる。芝居の中では、二人の掛け合いによって蓮長の二面性、そして心の葛藤をうまく表現している。


臨場感を演出する音響 リアルなお経も

お経の録音風景。©松竹(株)

「音楽は、スーパー歌舞伎の手法でテーマ曲を決めて劇中で印象的に使っています。今回は、昨年手掛けた映像作品、図夢(ずうむ)歌舞伎『弥次喜多』(市川猿之助初監督作品。Amazon Prime Videoにて独占レンタル配信中)でお世話になった作曲家の玉麻尚一先生にお願いし、素敵な音楽をつくって頂きました」

各場面をより印象的に演出しているのが音響だ。夜更けの御堂での静的なシーン、日蓮が決意を抱いて誓願を立てる動的なシーンなど、まるでその場に居合わせたかのように圧倒的な臨場感を伴うのは、音響の効果が非常に大きい。

「劇中で流れるお経は、本門寺で皆さまのご協力を得て録音しました。陀羅尼品の部分は日蓮宗の皆さんにお願いして録音しています。最初と最後に流れる「南無妙法蓮華経」は私のものです」

重々しいお経の声は、実際に日蓮宗僧侶たちが唱えているものだ。猿之助本人の唱える力強いお題目の声にも注目したい。


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今作品で伝えたいこと

特別ポスターと市川猿之助。©松竹(株) 

「日蓮聖人、伝教大師最澄様、文章でしか残っていない古の人たちの言葉や想いを、現代に生きる私たち生身の人間の身体を通して知ってほしい」と語る猿之助。歌舞伎『日蓮』で伝えたいことはなんなのか。

「この世で幸せになろう!です。日蓮聖人は、女性を含めて、当時差別されていた人間にも隔てなく手を差し伸べました。そして、現世の肯定です。このコロナ禍で鬱屈する気持ちもあると思います。すぐには答えが出るものではないですが、とにかくこの状況をなんとかしてほしい!と皆さん思ってらっしゃるのでは。劇中では、笑三郎さん演じる賤女おどろが、そんな皆さんの代表となっています。嫌なこともある世の中かもしれないけれど、がんばっていこうよ!ということを重ねたい」

蓮長後に日蓮=市川猿之助。©松竹(株)

来世での救済をいくら説いたところで現実に苦しむ人々は救えない。奇しくも、疫病や天災の続いた鎌倉時代と現在の状況は似ている。望まぬ子を宿し、生きていてもなにひとつよいことはなかったと詰め寄る劇中の賤女おどろ。同じくいま、現実世界で報われていないと考える人々は多いのでは。

日蓮は、そんなおどろに「苦しみは試練だ」と説く。置かれた場所や状況は変わらない。しかし、どんな境遇でも最善の力を尽くすことで、その先に見える希望の光は必ずある。

不幸の元だと思っていた赤子が、日蓮の腕の中でふと無邪気に笑う。その穢れなき姿は眩しいほど尊くて、自ら腕に抱くと真っすぐな目で母のおどろを見つめるのであった。そして、まるで泥沼に咲く純白の蓮のように、おどろにとってその赤子が生きることへの希望の光となった。

死後の世界ではなく「いまを生きる」ことの大切さを説いた日蓮。そのメッセージは、時空を超えて私たちの心に届く。


日蓮聖人の魂が眠る身延山久遠寺へ

朝のお勤めに向かう久遠寺の僧侶たち。

「身延山には、これまで3回ほど伺っています。一門の寿猿さんは、若い頃に七面山(身延山域の霊峰)で歌舞伎をやったと聞きました。登るのも大変なのに、すごい経験をもっていますよね」

先祖が日蓮宗であるという猿之助。日蓮聖人(しょうにん)所縁の地へも積極的に訪れていたようだ。

菩提梯より眺める深淵なる身延山の風景。

現在、日蓮宗の総本山とされる山梨県の身延山久遠寺は、比叡山、高野山と並ぶ日本仏教三大霊山のひとつとされている。日蓮聖人は最晩年の約9年間をここ身延山にて過ごし、弟子の育成に邁進した。寺域一帯は険しくも美しい山と渓谷。深い山間に小さな宿坊が点々とし、まさに人里離れた修行の場にふさわしい。

壮大な三門。

身延駅からしばらく車を走らせると、木々に囲まれて堂々と聳える総門へと至る。全国からの参拝者を迎える総門は身延山第一の関門であり、ここから三門へと長い参道が続く。日本三大三門のひとつとされる久遠寺の三門は100年以上もの間風雪に耐え、その存在感たるや、さすが総本山の聖域を守るに足る風格だ。

三門楼上では、ヨガに参加することもできる。予約・申込は身延山久遠寺 布教部へ(TEL:0556-62-1011)
垂直にそそり立つ菩提梯に圧倒される。

三門を潜ると、その先の光景に誰もが声を上げる。そこには「菩提梯」と呼ばれる287段の石段が壁のようにそそり立ち、訪れる者を試すのだ。高さにして約104m。苔むした石段を踏みしめ、登った先に現れる五重塔の美しさには誰もが息をのむだろう。さらには久遠寺の核となる壮大な本堂や祖師堂が立ち並び、法華経の根本道場としての風格を備えている。

奥から本堂、祖師堂。
菩提梯を登りきると、美しい五重塔が迎えてくれる。

そして忘れてはならないのが、日蓮聖人が身延に入山した際に居を構えた御草庵跡。約18m四方の粗末な草庵に、多い時で100人近い弟子たちが止宿したという。いまは鬱蒼とした山林の中に空地があるだけだが、当時60歳近い老僧が来る日も来る日も風雪に耐えた、久遠寺発祥の地である。近くの祖廟には日蓮聖人の御真骨と御遺灰が納められている。歌舞伎と合わせて、ぜひそのパワーを感じに訪れてみてはいかがだろうか。

山林にひっそりと残る御草案跡。

魂震える歌舞伎体験へ


2021年は、日蓮聖人御降誕からちょうど800年にあたる年だ。激動の鎌倉時代に僧侶として生き、逆境をもろともせず信念を貫いた情熱の人・日蓮。その根底に流れる深い慈愛の心は、800年を経たいまでもこうして人々の魂を震わせる。

この世でもう少し頑張ってみようか、そんな気持ちにさせられる歌舞伎『日蓮ー愛を知る鬼(ひと)ー』。千穐楽は今月28日。魂震える歌舞伎体験へ、ぜひ出掛けてみては。


※「ー愛を知る鬼(ひと)ー」の「鬼」は、正しくは角なし

※画像の無断転載禁止


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六月大歌舞伎。©松竹(株) 

日蓮聖人降誕八百年記念 『日蓮 -愛を知る鬼(ひと)-』

構成・脚本・演出:横内謙介 

演出:市川猿之助 

六月大歌舞伎 チケット好評販売中


2021年6月3日(木)~28日(月)

休演 7日(月)・17日(木)

第一部 午前11時~

第二部 午後2時10分~

第三部 午後6時~

※開場は開演の40分前を予定

※『日蓮』は第三部にて上演中