“ニューノーマル”を拒んだ若者たちが出向いた、知られざる上野戦争。【速水健朗の文化的東京案内。上野篇②】

  • 文:速水健朗
  • 写真:安川結子 

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東京は常に"スクラップ・アンド・ビルド"を繰り返している。そんな街の歴史を、ライターの速水健朗さんが過去のドラマや映画、小説などを通して案内する。今回はあまり知られていない上野戦争について。明治維新直後に起きたこの戦はどのようなものだったのだろうか。

速水健朗(はやみず・けんろう)●1973年、石川県生まれ。ライター、編集者。文学から映画、都市論、メディア論、ショッピングモール研究など幅広く論じる。著書に『東京どこに住む?』『フード左翼とフード右翼』などがある。

上野公園前の交差点近くで立ち止まった速水さんは、かつてこの辺りが、ある戦の激戦地だったと話し出す。そこから階段を上れば西郷隆盛の像が立ち、公園の広がる平和な風景からは想像がつかない。当時といまの位置関係を照らし合わせながら、その戦、上野戦争について教えてくれた。


前回【上野篇①『JR上野駅公園口』から見える、文化の分断・交流する上野駅。】はこちら

知名度の低い“上野戦争”とは、どれほどの規模だったのか。

1868年、上野戦争により寛永寺の大部分が焼失し、一帯は焼け野原となった。『温古写真集 17.上野寛永寺戊辰戦禍後』。東京都江戸東京博物館所蔵。写真:東京都江戸東京博物館 / DNPartcom

江戸城の無血開城によって平和裏に江戸は東京に生まれ変わった。そう信じてきたが、この言説には若干偏った史観が含まれている。当時、東京でも戦があったのだ。戊辰戦争の戦闘のひとつ、上野戦争。会津戦争や五稜郭の戦いに比べると知名度が低いか。“上野戦争”というネーミングには、地域限定の戦争といったニュアンスがある。だが、それは実際どれくらいの規模や期間だったのだろう。

当時の上野は寛永寺の門前町として、いま以上に栄えていた。上野戦争は、都心で起きた市街戦。上野広小路の「雁鍋」という料理屋の2階に鉄砲隊が配置され、寛永寺の黒門に向けて狙撃が行われた。これは古今亭志ん生(5代目)の落語『火焔太鼓』の枕として知られている。この雁鍋は文豪たちにも親しまれていたが、後に「牛鍋の世界」という飲食店に変わり、「世界ビル」が建ち、現在は「THE V-CITY UENO」という商業ビルになっている。場所は、上野公園前の交差点近く。上野公園の入り口が当時の寛永寺黒門である。上野戦争の最激戦区だ。

激戦区だった上野公園前の交差点近く。現在パチスロ店の隣に立つビルの辺りで、名高い料理店の雁鍋がかつて営業していた。写真:Pen編集部

杉本章子の小説「ふらふら遊三」の主人公、三遊亭遊三は落語家である。彼は上野戦争を彰義隊の一員として戦い、生き延びた実在の人物。落語家になるのは、戦争のずっと後のこと。遊三は、なぜ彰義隊に入隊したのか。結婚の世話をしてもらった人物に誘われ、断るに断れず山に向かった。彰義隊というと、全員討ち死にを覚悟し、新政府に楯突いて立て籠った人々という印象があるが、戦争すら想定せずに出向いた人もいたのかもしれない。

上野戦争は、上野の山に立てこもった彰義隊と、それを包囲した官軍、つまり薩摩藩・長州藩・土佐藩を中心とした新政府側との間で起きた戦争である。たった半日で決着が着いたが、睨み合いは3ヶ月ほど続いたという。彰義隊とはどんな集まりだったのか。諸藩の藩士や浪人、果ては渡世人らの寄せ集めの集団だった。多い時には、3000人を超えていたそうだ。年齢は10代から20代半ば。

落語家・三遊亭遊三の生涯を描いた小説「ふらふら遊三」が収録された『爆弾可楽』(杉本章子著 文藝春秋 1993年)写真:青野 豊

ただ立て籠っていたわけではない。都市での生活も併存した。杉浦日向子の『合葬』は、彰義隊の若者たちの日常を描いた漫画である。内部では主戦派と消極派で日々論争が続いていが、若者たちは遊びに出かけ、雁鍋をたまり場にもしていた。吉原の遊郭に行くこともあった。当時の吉原は、深川に移転している。上野から深川まで5kmほどの距離だが、昔の人なら平気で歩いただろう。彼らは金払いもよかったし、薩長の田舎侍とは違い、遊びにも慣れていた。そして、いつ死ぬかわからないという緊張感も抱いている。遊女たちの間では「情夫に持つなら彰義隊」という言葉も生まれたという。

彼らがここに集まってきた理由もそれぞれ。幕府への恩義を感じる者、新政府のやり方に納得がいかない者など。一方、自分の家に居場所がなかっただけの者もいた。俯瞰して見れば、冷静に時局を判断できない者たちの集まりでもあった。訪れつつあった当時の新しい秩序=新政府という“ニューノーマル”を受けれ入れることに反発を覚え、それに流されないことを選んだのだ。

彰義隊の若者たちの日常を描いた漫画『合葬』(杉浦日向子作 筑摩書房 2015年)。2015年には映画化もされている。写真:青野 豊

ここで上野戦争に至るまでの歴史上の経緯を説明しておく。江戸幕府15代将軍の徳川慶喜は、幕末に活躍した人物の中でもキーパーソンだ。彼は鳥羽・伏見の戦いで破れると大阪から江戸に退却する。当初は新政府軍より旧幕府軍のほうが軍事的には優位で、幕臣を含め慶喜の周辺は勝機があると考えていた。だが、これによって歴史の流れが変わったのだ。

江戸に戻った慶喜は恭順の意を示すため江戸城を引き払い、上野の寛永寺に籠る。当時の寛永寺は普通の寺ではない。30万坪を超える広大な敷地だ。さらに三方を断崖に囲まれ、8つの門を構える要害でもある。ここに慶喜警護のための彰義隊が結成されたわけだ。

静岡の徳川慶喜の屋敷跡、現在は料亭として営む「浮月楼」には、自転車に乗る慶喜のイメージパネルが展示されている。写真:静岡市 けいきさん自転車復刻プロジェクト

しかし、慶喜には新政府軍と戦う意志はなかった。江戸が戦火にのまれる事態を避けたのは、勝海舟と西郷隆盛の会談によるもの。もう一方では、慶喜の判断がそれをもたらしたという見方もできる。

慶喜はその後上野を去り、水戸に3カ月間の謹慎、後に静岡に居を移した。静岡ではカメラ、自転車、銃猟などの趣味を満喫していたそうだ。実は日本最初期のアマチュアカメラマンでもある。彼は晩年に撮った写真を、徳川幕府の艦隊副総裁だった榎本武揚に送ったりしていた。

徳川の聖地から、大日本帝国のための祝典の場へ。

寛永寺の中心である根本中堂。上野公園の噴水広場となっている地点に建っていたが、上野戦争で焼失したため、東京国立博物館から谷中方面へ向かう道沿いに移転再建された。(c) SHIGEKI KAWAKITA/a.collectionRF /amanaimages

ともあれ彰義隊は、それからどうしたのか。慶喜が上野の山を去った後も、解散することなくそのまま上野の山に残り、幕府の残存勢力としてやっかい者扱いされることになる。

新政府軍が攻撃を始めたのは、事前に決められた日程通り、1868年5月15日の朝のこと。薩摩藩の兵を指揮したのは西郷隆盛だった。彼は、現在の松坂屋上野店が立っている辺りで最前線の指揮所を陣取った。上野公園の入り口から階段を上がると、犬を連れた西郷像があるが、この階段の前が主戦場の黒門だった。ちなみに西郷像は着流しを着て犬を連れており、その姿は平和そのものに見える。だが、実際の上野戦争は凄惨なものだったという。彰義隊には200人以上の死者が出た。

上野公園の入り口から階段を上がった先の広場に立つ西郷像。観光客が写真を撮りに訪れる、東京を代表するランドマークだ。

前述した通り、雁鍋はこの戦闘の重要拠点だった。当初、彰義隊は敵の正面突破に対して大砲でよく守ったが、雁鍋の2階からの狙撃をきっかけに崩れていく。現在の東京大学本郷キャンパスの辺りから発射された佐賀藩のアームストロング砲が炸裂し、寛永寺の根本中堂には火の粉が舞い上がった。スターバックスも立っている、いまの上野公園の噴水広場周辺である。

噺家の遊三はこの砲撃を受け、寺内を逃げ回っていただけだったと「ふらふら遊三」には記されている。上野の山は全焼に近かった。彰義隊の生き残りは、逃げて会津戦争や函館戦争に赴くことになる。遊三も生き延びたひとりだ。

江戸の人たちは彰義隊を愛していたが、一方で明治政府にも従順だった。敗走する彰義隊を匿うことは厳罰に処され、その死体を処理することすら禁じられた。上野の山には、ずっと死体が放置されていた。その後、寛永寺の土地の大半は、新政府が接収する。

徳川の聖地であった上野の山が1873年に上野公園となり、第日本帝国のための国家的空間へと変わっていった。

上野戦争を生き延びた遊三は、その後函館で裁判所に勤務した。そこで女性関係で失敗して失職。妻にも離縁状を突きつけられた。東京に帰ってきた遊三は、かつての顔見知りのもとに出向く。初代三遊亭圓遊である。彼は、上野戦争前の遊三の弟弟子だった。立場は逆転したが、遊三は頭を下げて門下をくぐり噺家になる。豊富な人生経験は、噺家としての芸を助けたことだろう。上野戦争のエピソードは、こうした噺家たちの枕として、語り継がれていくことになる。

明治政府に接収された上野の山は、日本初の西洋式公園、上野公園となる。彰義隊の死体が野ざらしにされていた場所は、数年の歳月を経た後に公園として整備されたのだ。社会学者の吉見俊哉は「徳川の御威光の強い聖地であった上野の山は、後に大日本帝国のための国家的空間に変わった」と『東京裏返し』(集英社 2020年)で指摘する。戦争の英雄の凱旋パレード、内国勧業博覧会などの国家的イベントが開催される場所となるのだが、その話はまた次回に。

※次回【速水健朗の文化的東京案内。上野篇③】は、2021年4月22日(木)21時に公開を予定しています。

“ニューノーマル”を拒んだ若者たちが出向いた、知られざる上野戦争。【速水健朗の文化的東京案内。上野篇②】

  • 文:速水健朗
  • 写真:安川結子 

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