「ポルシェ911カレラRS」は、菅井汲が愛した特別な一台だった(後編)

  • 写真:小野祐次
  • 文:深萱真穂
  • 協力:広島県立美術館

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菅井汲(すがいくみ 1919~96年)はパリへ渡った日本人画家のなかで大きな成功を収めたひとりだ。図形的な抽象画で一世を風靡した画家は、高速道路を時速250kmで疾走するスピード狂でもあり、愛車はポルシェ。なかでもスポーツカー好きなら誰もが憧れる1973年式ポルシェ911カレラRSを新車で購入し、パリ市内はもちろんのことフランスのオートルートでも極限のドライブを楽しんだ。広島に眠るカレラRSを巡るストーリー、後編をお届けする。

菅井の911カレラRSを正面から。ポルシェのエンブレムを描いたボンネットのデカールは変色して図柄が判別しにくい。ヘッドライトとフォグランプはイエローバルブ。サイドミラーは左のみ。ナンバーはフランスでつけていた「8576YX75」のまま。高速道路でこの顔が後ろから迫ってきたら、どうだろう。スピードは菅井のみならず人を虜にする。小説家のフランソワーズ・サガンは1957年、パリ郊外でアストンマーティンを運転中に事故を起こし瀕死の重傷を負った。サガン原作の映画『悲しみよこんにちは』(57年)の冒頭に菅井の個展会場が映し出されたのも不思議な縁だ。

パリへ渡り世界的な名声を得た日本人画家の菅井汲(すがいくみ)は、ポルシェでオートルート(高速道路)を飛ばすスピード狂でもあった。亡くなるまで手元にあった1973年式ポルシェ911カレラRSは200台しか生産されなかった希少なライトウェイト仕様で、現在は広島県立美術館(広島市中区)が所蔵している。

記号を思わせる幾何学的な図柄と明快に塗り分けた色彩を特徴とする彼の作品は「スガイのシグナル(標識)」と評され、一世を風靡した。ひと目で菅井の作品だとわかる作風には、高速でクルマを運転する際に交通標識が視野に飛び込んでくる視覚体験が反映されている。標識は即座に認識できなければ生死にかかわる。ポルシェでの疾走が創作のインスピレーションを与えていたのは間違いない。

輪郭がはっきりした図形的な作風には、菅井の体調も影響していたようだ。1970年代にアシスタントを務めた、あまのしげさんによれば菅井は67年に起こした大事故の影響で絵筆をうまく扱えず、作品は菅井の構想に従い2人のアシスタントが制作したという。菅井が80年代以降、筆触の跡が残る絵画へと転じたのも、体調の回復が背景にあったのかもしれない。

96年、菅井は一時帰国中に77歳で亡くなった。愛車のカレラRSは、光子夫人が2003年に他界した後、作品やスケッチとともに遺族が同館へ寄贈した。寄贈前は菅井が晩年に設けた熱海のアトリエに保管してあったが、日本では登録されず、ナンバーはフランスの8576YX75のまま。サービス手帳の記録では、時速300kmまで刻まれたスピードメーターは3万5千km近辺で交換されたらしく、現在の距離計は44445kmを示している。

「車をやめたら負けやと思うたんです。ですから、もっと速いやつを買うたんです」

愛車の73年式ポルシェ911カレラRSと菅井。右は光子夫人。ボンネットのデカールはまだ変色していない。撮影者や撮影年は不詳だが、フジカラーの印画紙で裏面に「1979」の年号が読み取れる。(広島県立美術館所蔵)
64年の作品『ナショナル・ルート』(広島県立美術館所蔵)。中央に筆触を残した直線道路、両脇に「海坊主型」と称され菅井の作品にしばしば現れる赤い半円が連なる。

このカレラRSは菅井にとって4台目のポルシェだった。最初にポルシェ356を選んだ理由を後年、雑誌のインタビューで明かした。「ドイツ人の友人のせいなんです。彼は、絶対にベンツやと言い張りよってね。“なぜなら、ベンツは自分も乗っているが、あれは年をとってからでも乗れる車だ。しかし、ポルシェは若者でないと乗れない”。それを聞いた瞬間、“アッ、絶対ポルシェや”、そう思った」

一方、菅井の甥で60年代にパリで制作を手伝った辰巳一郎さんは、空冷エンジンの音もポルシェに魅せられた理由だと語る。「伯父は音楽よりブルドーザーや列車の音の方がいい、と言っていたんです。カルマンもスタイルじゃなくて音が好きだと言っていたし、のちには、RSの音はたまらん、とも言ってました」。家族の間で菅井は不器用だと思われており、ポルシェを買ったことに辰巳さんは驚いたという。
菅井にとってポルシェは単なる移動の手段ではなかった。77年、「スーパーカーの孤独」と題する一文を美術誌に寄せた。一部を抜粋しよう。

「いま、私の車PORSCHE CARRERA・RSのエンジンの回転計は七〇〇〇回転を上回り、速度計の針は二五〇キロを指している。
ハンドルを握るてのひらは、一直線に肉体の死とつながる極度の緊張で汗ばむ。
このように、日常生活のなかに死と直結した緊張を自らもとめることによって、安定という自分のなかにたまりがちな塵や芥をはらいのけ、制作にむかう自分を常に軽快なさわやかさのなかにおこうと努力している。」

菅井は毎週土曜と日曜の午後、5時間で500kmの走行を楽しんだ。大事故を経験した菅井は、時速250kmの高速運転が死と隣り合わせであることを熟知していた。そこへみずから赴くことによって、作品を構想するうえで欠かせない鋭敏な感性を保ち続けようとした様子がうかがえる。
詩人の大岡信は、親交のあった菅井が事故の後遺症でまだ十分な歩行も難しい時期に新しいポルシェ911Sを購入した逸話を、画家の次のような言葉とともに紹介した。

「ここで車をやめたら負けやと思うたんです。ですから、前のよりももっと速いやつを買うたんです。」

菅井の負けず嫌いな一面が伝わってくる。

今回、カレラRSの画像を撮影した写真家の小野祐次さんはパリ在住。大阪芸大を卒業後の86年に渡欧した。1、2年して菅井が監督を務めるソフトボールのチームに入った。メンバーは日本人の芸術家や料理人。試合後にカフェで開く反省会で、好々爺のような菅井が表情を変える瞬間があった。「監督の采配に批判が及ぶと、目をカッと見開いて『それは違います』と睨むんです。ネコ科の目でした」

小野さんは菅井のカレラRSに1度だけ同乗したという。「日曜の午後で、サンジェルマン大通りの店の多くは閉まってたんだけど、カフェのドゥマゴなんかは人がいっぱいでね。信号待ちでブワーッとエンジン音が響くと、みんな一斉にこっちを見るんですよ」。菅井の愛車は外観も目を引いた。簡素な内装について「これ、かっこいいんですか?」と尋ねると、菅井は黙って笑っていた。

進路も定かでなかった若者は、プロ用の撮影機材とともにカレラRSと再会した。「被写体として、いまも特別な存在です」

菅井は愛煙家だった。カレラRSでオートルートを時速250kmで走り、たばこに火をつけるときだけ150km/hに落としたという。食べ物にはこだわらず、朝食はチーズとコーヒー、夕食は毎晩ビフテキだった。徹底した合理主義者の一面をもつ。このクルマのガラス内面にもタバコのヤニがこびりついていたという。
拡幅したリアフェンダーが迫力の後ろ姿。スポイラーの付け根に、菅井がデザインしたソフトボールチーム「フェスティバル」のマークが目を引く。菅井は阪急電鉄の宣伝課に在籍時、阪急ブレーブスの球団マークをデザインしたという。

愛車のカレラRSは、菅井によってさまざまに手を加えられた。

変色したボンネットのデカールが時間の経過を物語る。ボンネット前端の黒い配色はカッティングシート。白いボディにはまだ艶が残る。
ステアリングホイールはカタログモデルの911Sより小径という。このハンドルを握りしめ、菅井は時速250kmで疾走した。ちなみに『ベストカー』Web版に、自動車評論家の徳大寺有恒が79年発行の同誌に寄せたツーリング仕様の試乗記が再録され「230km/h近いスピードでもコックピットは平穏だった」とある。

73カレラRSはカーマニアの垂涎の的となる高額な限定車だった。ツーリング仕様の日本での新車価格は495万円というから、同年式の日産フェアレディ240ZG(新車価格150万円)の3台分以上、3年前に生産中止となったトヨタ2000GT(同238万5500円)の2台分にあたる。しかし菅井が宝物のように扱った形跡はない。

あまのさんによれば、アミラル・ムーシェ街の菅井の自宅兼アトリエには門の内側にクルマを入れるスペースがあったが、いつもアトリエ前に路上駐車していた。1度だけモンパルナスの画材店まで菅井の運転に同乗したといい「石畳の道路は座り心地の悪いものでした」と振り返る。80年代後半には盗難に遭いかけたらしい。菅井のカレラRSはドアノブのキーシリンダーが別体になっており、盗難未遂と関係するのかもしれない。

菅井がカレラRSのフェンダーを広げて幅広のタイヤを履かせたことは前述したとおり。その改造はおそらく購入したディーラーに依頼したのだろうが、それ以外にも菅井によって、愛車はさまざまに手を加えられた。

最も目立つのはボンネットを飾る巨大なポルシェのエンブレムだ。強烈な自己顕示として下品な印象すら与えかねないデカールを、なぜ菅井は採用したのだろうか。初めて見たときからの疑問を解くヒントが、ジョン・スターキー著『ポルシェ911カレラRS&RSR』(小川文夫訳)にあった。

ライトウェイト仕様のカレラRSをテストしたジャーナリストが73年に『Road Test』誌へ寄せた記事が引用され、そこには「カレラRSはその速さゆえ、先行車のバックミラーに突如として現れるはずであるから、一目でわかるようにノーズに裏返しの文字で”Carrera”のロゴを入れるべきだ」とある。菅井がその記事を読んだかどうかわからないが、大事故でかろうじて一命を取り留めた菅井にとって、時速250kmで疾走する自己の存在を先行車に知らせることは重要な課題だったに違いない。そのための機能を託したエンブレムなのであって、単なる装飾だけではなかったのだろう。

ヘッドライトの周囲と、バンパーからボンネット前端にかけて、黒いカッティングシートを貼っているのも、先行車に強い印象を与えるための造作だったのかもしれない。その証拠に、車体後部にはそうした強烈な外観上の変更は見られない。

唯一、カレラRSの後部を特徴づける「ダックテール」スポイラーの下に、fと日の出を組み合わせた愛らしいステッカーが貼ってある。小野さんによると、菅井が監督を務めたソフトボールチームのマークで、帽子とユニフォームの胸を飾っていた。もちろんデザインしたのは菅井本人だ。ちなみにチームの名は「フェスティバル」。東京国立近代美術館所蔵の大作をはじめ、菅井はこの単語を作品名にしばしば用いた。

フロントバンパーに貼った黒いテープは視覚と空力の効果を目指したか。経年劣化であちこち切れ目が入っている。灯火類の黒い縁取りや、バンパー下の青い配色も菅井オリジナル。広げたフロントフェンダーの膨らみもこの角度からよく分かる。

「はみ出した日本人でありたい」と願った、菅井のアーティストとしての信念とは。

菅井の1969年の作品『ソレイユ・ブルー』(広島県立美術館所蔵)。同美術館の角田さんは「クルマでトンネルを抜けてユーゴスラビアのアドリア海へ出た一瞬、波間に映る夕陽を象徴的に表わした」とみる。菅井は59年と61年にリュブリアナ国際版画ビエンナーレで賞を獲得し、ユーゴスラビアでバカンスを過ごす習慣ができた。67年の事故もユーゴからの帰路に起きた。
菅井の63年の作品『月へ旅立つ鬼』(広島県立美術館所蔵)。鬼は60年代前半の油彩画のモチーフとしてしばしば登場した。月は64年に発表した詩『私と車』の一節に「われわれは 月に移住する計画をしよう/そこまでは 現在の車はとても 来れないだろう/ざまをみろ」とある。アポロ11号で人類が月面に着陸したのは69年のことだ。

1964年、菅井は『私と車』と題する詩を美術誌に寄せた。一節を紹介しよう。

 「私は 一億より はみ出した日本人でありたいとねがった.

 PORSCHEをもちたいと思った.」 ――1958年

 「時速400粁位 走れる車をもってみたい.

 20世紀の全世界のARTISTESより はみ出した存在になりたい.

 いずれも不可能では ないだろう.」 ――1963年

「はみ出した日本人でありたい」と願った58年、名声への階段を登る途上の菅井が想起したのはポルシェだった。高速で走るポルシェこそ、菅井を「はみ出した」存在へと押し上げる原動力だった。

菅井のカレラRSを所蔵する広島県立美術館の主任学芸員、角田新さんはこう語る。「作品をつくる上で迷ったとき、菅井はリスクがある方を選んだという。安全な方はつまらない、ということでしょう。その判断のスピードを、運転の中で研いでいた。彼の制作とポルシェは切っても切れない関係にあります」

乗用車は今日、ありきたりな存在となり、白物家電に等しいとまで言われて久しい。自動運転技術の進歩が、その傾向に拍車をかける。クルマに興味をもたない若者は珍しくない。

そういう時代だからこそ、独創の画家と特別な愛車が極限のスピードを介して結んだ深いつながりは、一段と輝いてみえる。

カレラRSの書類ケース。ダッシュボードに入っていた。菅井はフランス語が不得手で、個展会場であまり話さず、神秘的な印象を与えたとの逸話がある。そのためかカレラRSは光子夫人の名義だった。

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