“視覚の革命”を起こした、ヤン・ファン・エイクの名画を訪ねてベルギーへ。【中編】

  • 写真:吉田タイスケ
  • 文:青野尚子

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ベルギー、ゲント(ヘント)の聖バーフ大聖堂にあるヤン・ファン・エイクの『ゲント(ヘント)の祭壇画』。この名画の一部が修復されたのを機に、ゲント美術館と聖バーフ大聖堂で大規模なヤン・ファン・エイクの展覧会が開催されている。前編は聖バーフ大聖堂、中編はゲント美術館、後編ではゆかりの地であるブリュージュとメッヘレンの地へ。3つの街を巡って、ファン・エイクの足跡をたどる。

『ファン・エイク オプティカル・レボリューション』展が開催中のゲント美術館。

前編では『ゲント(ヘント)の祭壇画』に加えて現代美術の展示が行われている聖バーフ大聖堂を訪れたが、中編ではゲント美術館で開催中のヤン・ファン・エイクの特別展『ファン・エイク オプティカル・レボリューション』の見どころを紹介してく。この展覧会は、世界で20点ほどしかないとされているエイクの作品のうち、約半分を集めている。生きているうちにもう一度お目にかかることはできないかもしれない作品も多い、貴重な展示だ。


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絵に描かれた当時の道具も並ぶ、ゲント美術館の展示。

キリストの受難を描いた作者不明のタペストリー。1445〜1455年頃。Royal Museums of Art and History of Belgium, Brussels, ©KMKG, Brussels

本展は、壁いっぱいにかけられたタペストリーと、現存する数少ない資料から始まる。タペストリーは幅約9m、高さ約4mもある大きなもの。ヤン・ファン・エイクと同時代につくられた。当時のブルゴーニュ公国が、こんなに手の込んだ高価な工芸品を発注できるほど豊かだったことがわかる。また資料からは、ヤン・ファン・エイクがフィリップ善良公の結婚相手だったイザベラに会いにポルトガルまで出向いた際、外交上の秘密の任務を担っていたことがわかっている。彼は単なる画家としてだけでなく、外交官としてもフィリップ善良公から厚い信頼を得ていた。

『ファン・エイク オプティカル・レボリューション』の展示風景。『ゲントの祭壇画』の模写が並ぶ一角。

その先の展示室には『ゲントの祭壇画』の修復されたパネルの模写が並ぶ。併せてイタリアの人文学者、バルトロメオ・ファツィオらがヤン・ファン・エイクについて書いた本なども展示されている。「ヤン・ファン・エイクは、その画才からアレキサンダー大王の肖像画を描いたとされる古代ギリシャの画家、アペレスにたとえられていました」と展覧会をコーディネートしたゲント美術館のフレデリカ・ファン・ダムが教えてくれた。アペレスが描いたという絵は一枚も残っていないが、その才能は伝説となって伝えられている。

展覧会コーディネーターのフレデリカ・ファン・ダムさん(左)とアシスタント・コーディネーターのマティアス・デポーターさんが解説をしてくれた。

また、ルネサンスの芸術家・建築家たちについての評伝『芸術家列伝』がベストセラーになった画家、ジョルジョ・ヴァザーリは、ヤン・ファン・エイクを油彩技法の創始者と称えた。実はこの記述は正確ではなく、ファン・エイク以前にも油彩画は描かれていたことがわかっている。ただし、ファン・エイクは油絵の具が速く乾くようにする技術を開発している。これによってあの細かい描写が可能になり、彼に続くルネサンスの画家たちも大きな恩恵を受けたのだ。ヴァザーリの話は盛りすぎではあるのだが、彼の功績は決して小さくはない。

ヤン・ファン・エイクの絵に登場する陶器の一例。当時のヨーロッパではとても貴重なものだった。

館内を進むと陶器やタイル、銅の蝋燭立て、ケトル(やかん)などが展示された一角がある。これはファン・エイクの絵に描かれた道具のうち、博物館の収蔵品などから、できるだけ同じ時代の似ているものを探し出してきたのだという。精緻な職人の技が活かされたこれらの工芸品は、よほどお金持ちでなければ持つことのできないものだった。ヨーロッパでも一、二を争う強国だったブルゴーニュ公国の宮廷画家だったファン・エイクは、これらの最新かつ高価な道具を目の当たりにすることができたのだ。

『ゲントの祭壇画』受胎告知の場面。マリアの言葉は上にいる神から読めるように上下が逆になっている。
『ゲントの祭壇画』受胎告知の部分。銅のやかんや洗面器の光の反射によって、立体感や重量感を表現している。タオルや洗面器は、聖母マリアの純潔を暗示する。
窓辺のフラスコのような容器に入った水に光が反射している様子など、ここまで描かなくても……、と思えるくらいリアルだ。

また、ここで展示された実物と壁に投影されているヤン・ファン・エイクの絵とを比べると、彼が陶器や銅の表面に反射する微細な光の違いを正確に描きわけていることがわかる。

「ヤン・ファン・エイクは光学に大きな関心を抱いていました。彼が描き出した、レンズや鏡を透過し、反射する光の表現はその前の時代にはなかったものです。光の振る舞いを正確に描き出すことが、彼の絵を一段とリアルなものにしています」とフレデリカ・ファン・ダムさん。

等身大で描かれた、アダムとイブ

『ゲントの祭壇画』に描かれた楽園を追われるアダム。

ゲント美術館に展示されている『ゲントの祭壇画』のアダムとイヴのパネルは、まだ修復されてない。ただ、聖バーフ大聖堂では頭上より高い位置にあるので、ほぼ目の高さで見ることができるこの展覧会は貴重だ。描かれた2人のは大きさほぼ等身大。「アルプス以北における現実の人間と同じサイズで描かれた裸体画としては、最初のものだと考えられています」とマティアス・デポーターさんが教えてくれた。

『ゲントの祭壇画』で「知恵の実」を手にするイヴ。

アダムとイヴは2人とも陰部を木の葉で隠しているので、楽園を追放される場面であることがわかる。イヴは口をぎゅっと結んでおり、決意を感じさせる表情だ。それに対して、アダムはどことなく諦めや悲しみをたたえた視線を漂わせている。

不安な表情にも見えるアダム。
口元に意志が感じられるイヴ。

2人は彫像が置かれるくぼんだ壁、壁龕(へきがん)に立っているかのように描かれているが、アダムの足はそこからわずかにはみ出している。
「楽園から苦しみに満ちた人間界へ、原罪を背負った最初の人類が恐る恐る足を踏み出しているところです」とマティアス・デポーターさん。こういったトロンプルイユ(だまし絵)的な手法は、人体や枠などをリアルに描けていないと効果がない。ファン・エイクの技量を見せつける場面だ。

枠の外、つまり外界への一歩を踏み出すかのようなアダムの足。

展覧会では、このほかにもファン・エイクがどのようにして“リアルな”画面を構築していったのか、その秘密に迫っている。そのひとつが、空間を表現する遠近法だ。ファン・エイクが使っていたのは、彼より少し後のイタリア・ルネサンスの画家たちが多用した一点透視図法といった幾何学的な遠近法ではなく、より直観的なものだ。たとえば近くの地面は茶色で、少し離れた森などは緑で、さらに遠い街並みは青い大気に霞んだように見える。ファン・エイクは、後にレオナルド・ダ・ヴィンチらも多用した「空気遠近法」を先取りしていた。

窓の外には、人物まで描き込まれた街並みが広がる。
上の写真の窓の外を描いた部分は、実際にはこんな小さな画面に描かれている。

『ゲントの祭壇画』の「受胎告知」のパネルは室内から窓の外を見る構成になっている。ここでは室内はほぼ水平の視線で描かれているのに、窓の向こうの街並みは見下ろすような視点で描かれている。2つの矛盾する視点によって描かれた空間が、一枚の絵に同居しているのだ。しかし、一見しただけではそのことがわからないほど自然だ。彼の絵にはそんなトリックも隠されている。

同時代の画家の作品とファン・エイクの絵画を見比べる。

ヤン・ファン・エイクの工房『墓の傍の三人のマリア』1440年頃 ロッテルダム、ボイマンス・ヴァン・ベーニンゲン美術館蔵。ファン・エイクの絵はこのような小さなものも多い。教会などではなく貴族の邸内やプライベートな場所に置かれていたと考えられている。

ヤン・ファン・エイクの絵の背景には、ゲントなど彼が暮らした地と地中海やエルサレムの光景が混ざり合っており、彼がポルトガル以外の地にも旅をした可能性が指摘されている。

ヤン・ファン・エイク『聖痕を受ける聖フランチェスコ』1440年頃 フィラデルフィア美術館蔵。小さな絵だが、岩や草が精密に描き込まれている。展覧会には、これとよく似たトリノのガレリア・サバウダ蔵の絵が出品されている。
フラ・アンジェリコ『聖痕を受ける聖フランチェスコ』1430年頃 他の画家による同時代、同主題の絵画が展示されており、ファン・エイクの作品と見比べられるのもこの展覧会の特徴。ファン・エイクに比べると、岩も草も簡略化されている。
ヤン・ファン・エイク『泉の聖母』1439年 アントワープ王立美術館蔵。縦が20cmにも満たない小さな絵。Royal Museum of Fine Arts, Antwerp, © www.lukasweb.be - Art in Flanders vzw. Photo Hugo Maertens
ステファノ・ディ・ジョヴァンニ『バラの庭の聖母』1420年頃 ヴェローナ、ムゼオ・ディ・カステルヴェッキオ蔵。同じ庭の中の聖母を描いたファン・エイクの『泉の聖母』と比べると、ファン・エイクの迫真性がわかる。

風景の表現も彼の先達とは異なるものだった。「山や木、岩、植物まで、とても正確に描かれています。科学者のような観察眼の持ち主です」とフレデリカ・ファン・ダムさん。「種類の違う雲を描き分け、噴水の水しぶきまで表現しているのに驚かされます」とマティアス・デポーターさんも説明してくれた。

ヤン・ファン・エイク『受胎告知の二連祭壇画』1436年頃 マドリード、ティッセン・ボルネミッサ美術館蔵。天使の翼は枠からはみ出している。背景の黒いところに、影が映り込んでいるのも描かれている。

中世の芸術界では「絵画と彫刻のどちらが上位にあるのか」という論争があった。この論争にある意味で決着をつけたのがファン・エイクの「グリザイユ」という手法で描かれた一連の作品だ。グリザイユとは、主にグレーのトーンで大理石などの彫像があるかのように描く、一種のだまし絵だ。

実際に黒い板の前に白い彫像を置いてみると、確かに影が映り込む。

本展には、ファン・エイク以外の作家による白い彫刻を黒いアクリル板の前に置いたものも展示されている。こうすることで、ファン・エイクが彫像の後ろに描いた影が正確であることがわかる。絵画と彫刻のどちらが上位なのか、ファン・エイクの言葉は残っていないが、絵画でこれだけリアルに彫刻を表現することができるのだから絵画の方が上だ、そう言いたかったのではないかという気がしてくる。

シワやイボ、無精髭まで細かく描き込まれた肖像画。

『ゲントの祭壇画』寄進者のユドークス・フェイトの肖像。
『ゲントの祭壇画』寄進者の妻のリスベット・ボルルート。

最後の展示室は、肖像画を集めたコーナーだ。『ゲントの祭壇画』の裏面に描かれた寄進者夫妻のポートレイトもここに展示されている。ポートレイトのうちいくつかは、本当に小さなサイズで驚かされる。ファン・エイクは彼らを決して美化しない。シワやイボ、無精髭まで細かく描き込まれている。

ヤン・ファン・エイク『ボードワン・ド・ランノワの肖像』(部分)1435年頃 ベルリン国立美術館蔵。シワやイボも見逃さない。ファン・エイクの評伝を書いたバルトロメオ・ファツィオは「声以外はなにもかも本物そっくり」と評した。
『マルガレータ・ファン・エイクの肖像』1439年 画家の妻の肖像画。衣服などから裕福さが伺える。この絵はゲント美術館では3月9日までの展示となり、3月12日から所蔵元のブルージュのグルーニング美術館で展示される。

ファン・エイクの肖像画の多くが「四分の三正面」と呼ばれるアングルであることも注目だ。この頃の肖像画は真横から描かれるのが普通だった。鼻や顎のラインがはっきりわかるこのアングルがモデルの特徴を最もよく現すと考えられていたからだ。しかし、私たちが目にする顔の角度はファン・エイクが描くもののほうが多いだろう。「四分の三正面」は彼の絵が自然に見える理由のひとつだ。

『ファン・デル・パーレの聖母子』

ファン・エイクは1441年、ゲントと同様に繁栄していたブルージュで没した。そのブルージュにあるグルーニング美術館ではファン・エイクの『ファン・デル・パーレの聖母子』が展示されている。一番右に描かれた聖ゲオルギウスの甲冑や兜には、聖母マリアの赤い衣が映り込んでいる。

『ファン・デル・パーレの聖母子』(部分)。ヘルメットには聖母マリアが映り込んでいる。

その左側にいるのは、寄進者のヨーリス・ファン・デル・パーレだ。寄進者は普通、聖人たちより小さく描かれるのが普通だった。しかしファン・エイクは聖人も寄進者も同じ大きさで描いている。あたかも寄進者が暮らす俗世界に、聖人たちがそのまま現れたかのようなリアルさを感じさせる。

『ファン・デル・パーレの聖母子』(部分)。金色にしか見えない布地も絵の具で表現されている。

聖人や貴族たちが身につけている豪華な衣装にも、彼の“リアル”の秘密がある。金糸が織り込まれた布地が白や黄色の絵の具で描かれているのだ。この時代は金色は金箔で表現されるのが普通だったが、金箔だとフラットな画面になってしまう。ファン・エイクの描く服は、皺もていねいに描き込まれ、その中の肉体の量感を感じさせる。



聖バーフ大聖堂
Sint-Baafsplein, 9000 Gent,Belgie
※現代美術の展示は2020年10月まで。詳細はHPで要確認
https://sintbaafskathedraal.be


『ファン・エイク オプティカル・レボリューション』
開催期間:2020年2月1日~2020年4月30日
開催場所:ゲント美術館(Museum voor Schone Kunsten Gent | MSK Gent
Fernand Scribedreef 1, 9000 Gent, Belgie
料金:一般28ユーロ 
※開館時間、休館日はHPを要
https://www.mskgent.be/en


グルーニング美術館
https://www.visitbruges.be/en/groeningemuseum-groeninge-museum

メムリンク美術館
https://www.museabrugge.be/en/visit-our-museums/our-museums-and-monuments/groeningemuseum

グルートフーズ博物館
https://www.museabrugge.be/en/visit-our-museums/our-museums-and-monuments/gruuthusemuseum

ブスレイデン邸博物館
https://www.hofvanbusleyden.be


協力:
ベルギー・フランダース政府観光局 www.visitflanders.com/
ゲント市観光局 https://visit.gent.be/en
ブルージュ市観光局 www.visitbruges.be/en

“視覚の革命”を起こした、ヤン・ファン・エイクの名画を訪ねてベルギーへ。【中編】

  • 写真:吉田タイスケ
  • 文:青野尚子

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