【Penが選んだ、今月の読むべき1冊】
『タイム・シェルター』
ゲオルギ・ゴスポディノフ 著 寺島憲治 訳 早川書房 ¥3,960
ノスタルジーには中毒性がある。人が甘美な過去を賛美し始めたら注意したほうがいい。それはなにかの予兆かもしれない。
この小説の舞台は謎めいた男、ガウスティンが開設した「過去のためのクリニック」だ。語り手の「ぼく」がガウスティンと出会ったのは1989年。彼は過去のがらくたを集めていた。1937年のタバコを手に入れたというので試させてもらうと「三十七年の気分はどんなものかな?」と尋ねてきた。やがて彼は姿を消す。最後に彼から届いた手紙の日付は1939年8月14日。そして、ふたりはスイスのチューリッヒで再会する。「ぼく」はガウスティンの助手になった。
クリニックでは、認知症患者の過去を再現した部屋で治療する。幸せな時代に還ることで安らぎを得る。問題はここからだ。
「いつの日か、それも近いうちに、多くの人々が、自分の意志で記憶を『失くす』ために、進んで過去に戻ってくるようになる」
ガウスティンが言う通り、若く健康な人々までがこの施設に依存し始める。不安を煽られ「あの頃は良かった」と言い出すと、政治がそこにつけ込んでくる。
1937年のタバコはフィルターがなく、ひどく煙った。「きっとあの年のゲルニカ爆撃のためだろうな」とガウスティンは言った。「あの時爆発した飛行船ヒンデンブルグ号のせいかもしれないな」。タバコにさえ時代の痕跡が刻まれていた。戦争が始まったのは1939年9月。その時点ならまだ引き返せたのか。歴史が繰り返すのはなぜか。「思えば、あれが予兆だった」と人はあとから気づくのだ。
著者のゲオルギ・ゴスポディノフは、本書でブルガリアの作家として初めてブッカー賞を受賞した。現実がディストピアすぎるいま、歴史の細部を読み解き、ノスタルジーに警鐘を鳴らす一冊。