狂言師にして人間国宝の野村万作は、94歳のいまも現役で舞台に立ち続けている。映画『六つの顔』は人生を懸けて到達した、芸の境地を貴重な舞台映像と証言でたどるドキュメンタリーだ。
狂言は「猿に始まり、狐に終わる」と言われる。『靱猿(うつぼざる)』の猿を演じて初舞台を踏み、『釣狐(つりぎつね)』の狐を演じて一人前として認められるという意味である。そして、この至難の大曲と言われる『釣狐』を26回も演じた狂言師はこの人をおいて、ほかにいない。『六つの顔』では1966年、万作が35歳の舞台映像の一部を観られるのだが、これがもう破格の存在感。当時の身体能力の凄さ、ほとばしるような情熱に一瞬で胸を打たれる。
「二百五十四ある狂言の演目の中で『釣狐』はいちばん難しい曲であり、体力と運動神経がある程度ないとできない曲と言えます。私も24歳で初めて演じましたが、狐がお坊さんに化ける前半は狐のぬいぐるみを着た上にお坊さんの装束と面をつけます。後半は狐のぬいぐるみだけになり、狐の面をつける。時間も狂言最長の75分ですから、あまりの大変さに多くの狂言師は二度か三度やるとこりごりしてしまうわけです。40、50 になったらもう勘弁してくれと思うような役を62歳で演じ納めるまで26回もやったのは、やはり演目に特別の執着があったからでしょうね」
ひとたび稽古に入ると、家族もうかつには話しかけられなかった。食事の最中でも狐の所作が飛び出すほどで「家の中に狐がいる」緊張感はすさまじく、万作がいる部屋を「狐小屋」と呼んだという。
体力を維持するため、近所の公園で縄跳びを300回した後、マンションの15階まで一気に駆け上がる練習をしたこともある。
父の六世万蔵も「狐役者」と呼ばれた。万作が『釣狐』で芸術祭大賞を受賞すると、父は「息子がライバルになった」と喜んだ。
「懐かしいですね。戦争で稽古場も衣装も焼けてしまったところからのスタートですから。あの時は、父親もがっくりきて、もう子どもには狂言を継がせないということまで言った。空襲で家の近くの横穴に避難した翌日、電線に人間の死体が引っ掛かっているのを見たりして、私も非常に恐ろしい経験
をいたしました」
いまでこそ伝統芸能の役者が現代演劇の舞台に出る企画は珍しくないが、その先駆者でもある。ネスカフェのCMに出たことで、狂言の認知度が一気に上がった。狂言の海外公演にも初めて挑んだ。
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“狂言は笑いだけではない”、強い信念が映画につながった
「狂言一筋とよく言われますが、自分ではそうではないと思っています。それこそ次男ですから、継がなくたっていいわけです。若い頃からいろんな芝居を観て、改めて狂言を見直すと、その素晴らしさがわかる。そう思い至ってからが、自分が狂言師となった時だと、私は考えているんです」
そしていま、ライフワークとして演じ続けているのが珠玉の夫婦愛を描いた狂言『川上(かわかみ)』だ。
「まだ狂言があまり高く評価されていなかった20代の頃から、狂言には『川上』と『月見座頭(つきみざとう)』という海外の前衛劇にも引けを取らない傑作があるという強い想いを抱き続けてきました。どちらも目が見えない人間が主人公で、特に『川上』は、いまでは放送禁止用語とされている言葉も出てくるため、なかなか公共の電波では放送させてくれない。ならば映画にすることで広く知っていただき、後世まで遺したいというのが、実は『六つの顔』を撮っていただいた私の大きな動機のひとつです」
盲目の夫が川上の地蔵菩薩に参詣すると、目が見えるようになるが、妻との悪縁を絶たなければ、再び盲目になるというお告げを受ける。それを聞いた妻は、夫が再び盲目になろうとも、絶対に別れないと言う。果たして夫婦がどんな選択をするのか。深い余韻を残す作品だ。
「狂言は、ただ面白いだけではない。人間の機微を描いた素晴らしい作品がたくさんあるし、私はそういう作品が好きなんです」
万作を中心とする一門の狂言会「野村狂言座」の8月公演では、初めての演目に挑むという。94歳のいまもなお挑戦し続ける情熱の人。その極意を尋ねると、「あえて人のやらないことをやる」、そう言って笑った。
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WORKS
映画『六つの顔』

94歳のいまも狂言師として舞台に立ち続ける野村万作。代名詞『釣狐』の秘蔵映像、これまで磨き上げてきた『川上』は全編を映画ならではの手法で収録。貴重なインタビューとともに飽くなき挑戦を続けるその軌跡と現在の姿を捉えた。8月 22 日より全国順次公開。
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著書『狂言を生きる』

万作自らこれまでを振り返った著書。3歳で『靭猿』で初舞台。至難の大曲『釣狐』は、24歳で初めて演じて以来、26回も務めた。88歳の時、米寿の記念に狂言師として歩んできたこれまでの人生と、芸に対する深い想いを貴重な写真とともにたどった至高の芸話。
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舞台『万作を観る会』

野村万作主宰の狂言会。年に一度、万作が観客に観て欲しいと考えた曲目を意欲的に取り上げている。今回は、映画『六つの顔』でも紹介された狂言の名曲『靱猿』を上演。万作は猿曳の役を演じる。11月16日、国立能楽堂で開催予定。
※この記事はPen 2025年9月号より再編集した記事です。