平和への願いと母の記憶――カズオ・イシグロ が語る、映画『遠い山なみの光』が描く希望

  • 文:瀧 晴巳
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カズオ・イシグロ●1954年、長崎県生まれ。ノーベル賞受賞作家、脚本家。5歳の時に両親とともに英国に移住。文学への貢献により英国からナイト爵位を授与されたほか、フランスから芸術文化勲章シュヴァリエ、日本から旭日重光章を受章している。映画『生きる LIVING』(2023)の脚本は、米アカデミー賞のほか、英国アカデミー賞(BAFTA)にもノミネートされた。

ノーベル文学賞作家カズオイシグロの『遠い山なみの光』が、石川慶監督によって映画化され、第78回カンヌ国際映画祭のある視点部門に出品された。カンヌに到着したばかりのイシグロさんにインタビュー。

1954年、日本人の両親のもと長崎で生まれたイシグロさんは、5歳の時、家族と渡英。のちに英国籍を取得。89年『日の名残り』でブッカー賞を受賞。『わたしを離さないで』も映画化され、日本ではドラマ化もされた。2017年、ノーベル文学賞を受賞。23年には黒澤明監督の映画『生きる』の英国版『生きる LIVING』を企画、脚本も手掛けて、アカデミー賞の脚色賞の候補に。

今回映画化された『遠い山なみの光』は82年に発表したデビュー長編小説。長崎出身のイシグロさんにとって、とりわけ深い思いを寄せる理由があった。

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希望を失わず生きようとした戦後復興期の女性たちを描く

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広瀬すず演じる若い頃の悦子と二階堂ふみが演じる佐知子が稲佐山で向かい合うシーン。劇中では、それぞれ別の生き方で懸命に戦後の長崎を生きる姿が描かれている。 ©2025 A Pale View of Hills Film Partners

――デビュー作が40年以上の時を経た今、映画化されたことについて、どのように感じましたか。

とてもシュールな感じがしました。私がこの小説を書き始めたのは45年前、25歳の時です。若く、まだなんの経験もなく、小さなテーブルにしがみつくように小説を書いていた当時の私は、自分の書いているこの小説が素晴らしいキャストで映画になり、その映画がカンヌ映画祭に出品されるなんて想像もできませんでしたから。

――小説は、ひとりの女性の回想で幕を開けます。80年代のイギリスで暮らす悦子(吉田羊)は、長女を自殺で失った喪失感の中、次女のニキ(カミラ・アイコ)に自分の過去を語り始めます。戦後間もない長崎で、若き日の悦子(広瀬すず)は、佐知子(二階堂ふみ)とその幼い娘と出会う……彼女たちに一体何があったのか。『遠い山なみの光』は、あなたのその後の小説がそうであるように、過去の記憶をめぐるミステリアスな物語です。映画の中で特に印象に残ったシーンがあれば、教えてください。

どれかひとつのシーンをあげることは難しいですね。悦子の若い頃を広瀬すずさん、年を重ねてからを吉田羊さんが演じ、映画ではそれぞれのキャラクターが際立っていて、コントラストが効いています。 

この映画の大事なテーマは『希望』だと思うのですが、戦後復興期の長崎のシーンでは広瀬さんと二階堂さん、若いふたりがそれを体現してくれました。悦子(広瀬すず)さんと佐知子さん(二階堂ふみ)は、ふたりとも長崎で戦争を経験して、惨状を目の当たりにし、つらい経験をしたことで世界を恐れています。しかしそれでも諦めずに希望を抱き、勇気を持って未来に踏み出そうとしている。そのことが彼女たちの素晴らしい演技によって伝わってきました。 

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吉田羊演じる年を重ねた悦子が、長崎での過去を回想するシーン。 ©2025 A Pale View of Hills Film Partners

一方、80年代のイギリスのシーンでは、吉田羊さんが年を重ねた悦子を違和感なく見事に演じています。ひとりの女性の若い頃と年を重ねてからをふたりの俳優が演じる場合、違和感を感じることもあると思いますが、この映画ではとてもシームレスに観ることができると思います。そしてもうひとり、悦子の娘・ニキを演じたカミラ・アイコさん、彼女はこれが女優デビュー作になりますが、彼女の役も重要です。私は映画を観る時、俳優一人ひとりというより、芝居の関係性に目が行くのですが、母親の過去を娘が聞き出すというこの物語の大切な場面を吉田羊さんとカミラ・アイコさんのふたりはとてもよく表現してくれたと思っています」

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母が語ってくれた被爆体験が小説のベースに

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今回の映画化の前にも、母親の長崎での原爆体験を作品化しようと何度も試みてきたと語る、イシグロ。

――イシグロさんのお母さまも、長崎で原爆を経験しています。イシグロさん自身、お母さまから当時の話を聞く機会はありましたか。

「母は、実はこの小説を書き始める2年くらい前に『もっと長崎の話、戦争の話、原爆の話を私にしたい』と語ってくれました。自分の記憶を私に伝えることが重要だと彼女は思っていたし、私が作家になる上でそのことがなにか参考になるかもしれないと考えていたのです。この小説を書く前に、実はいくつかの短編で母の話をモチーフにして書いたこともあります。この小説でも、私が想像した当時の長崎の様子は母からの話がベースになっているし、イギリスで悦子が娘のニキと会話する場面の一部は、私が母とした会話を反映しています」

――大切な思い出を話してくださって、ありがとうございます。イシグロさんのお母さまの体験が、小説を書く原点になっていたんですね。イシグロさんは石川監督の『ある男』大ファンで、本作ではエグゼクティブ・プロデューサーも務めています。本作の映画化にあたり、石川監督のプロットを読んだ時から感激したということですが、それはどんな点だったのでしょう。

「実はこの小説はこれまでに3回、映画化が企画されたことがありました。60年代には日本ヌーベルヴァーグを牽引したひとり、吉田喜重監督が映画化を企画したけれども、実現しませんでした。吉田監督自身も戦争を経験している世代ですから、実現していたら今回の映画とは異なる作品になっていたんじゃないかと思います。石川監督は、日本の歴史や長崎の歴史に敬意を払いながらも、過去のつらい経験ばかりに目を向けるのではなく、私たちがいま生きている世界、今後の世界にも触れていて、前向きな話にしてくれています。いまの若い世代の俳優たちによる、若い人たちのための映画になっている、そのことがとてもうれしかったです」

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石川監督が、映画ならではの表現で原作の弱点を克服してくれた

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物語のキーマン的存在でミステリアスな役柄を見事に演じた広瀬すず。 ©2025 A Pale View of Hills Film Partners

――過去を語る時、人は必ずしも本当のことを語るとは限らない。特に、それがつらい過去であれば、なおさら。「信頼できない語り手」は、のちのイシグロ作品にも引き継がれる、あなたの小説の特徴でもあるけれど、映像化するのは難しかったのではないかと思います。

脚本を書く前からこの点については監督とよく話し合いました。つまり、自分のことを打ち明ける時に知り合いや友人の話として語る、これは物語をミステリアスにするための叙述的なトリックではなく、人間がよくやることだと。監督はそこをよくわかってくれて、悦子と佐知子の関係を映画でうまく表現してくれたと思っています。

映画と小説の違いでいうと、もうひとつ佐知子が戦争のつらい記憶を語るシーンがあるのですが、小説ではフラッシュバックで表現していたことを、映画ではフラッシュバックは使わないことにしました。監督は大胆な選択をしたと思います、映画では長いモノローグ、彼女のセリフだけで伝えることにしたからです。しかも顔さえ見えない。彼女の背中と、たばこの煙と、彼女の声だけ。結果的にそれは素晴らしい選択でした」

――昨年は日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)がノーベル平和賞を受賞。戦後80年目にあたる今年、この映画が公開されることについて、作品に託した想いを改めてお聞かせください。

「戦後80年目の今年、この映画が公開されるというのはとても意義深いことだと感じています。なぜなら、それはその時代を生きた人たちが亡くなろうとしているということを意味しているからです。私の親の世代が経験したことをどうしたら風化させずに伝えることができるのか。いまの日本の子どもたち、世界中の子どもたちが『これは自分に関係のある話だ』と思ってもらえるのかを考えなければならない時期に来ているのです。

石川監督は、この映画で戦争の悲惨さを直接的に伝えるのではなく、そうしたつらい背景を持ちながらも普通に暮らしている人たちを描いています。そのことによって、いまの平和が決して当たり前のものではなく、どれだけ恵まれているかを伝えてくれているのです。それはいまの時代、忘れがちなことですよね。日本、そして多くの先進国では、平和が長く続いたことで、それが当たり前、それがずっと続くと思いがちで、いまの世の中は本当に危うい状況にあると感じています。

この平和は決して当たり前ではない、これから先、どう維持していくことができるのかを考えるべき時なのです。この映画は普通の家庭、一般的な人々を描いていて、そこが重要なポイントだと思っています。ごく普通の家庭、一般的な人たち、そのすぐそばで戦争が起きた。この先また同じことが起きても不思議ではないのです。この映画がカンヌに出品されたことは素晴らしいことだと思っています。できるだけ多くの国の言語に訳され、たくさんの国の人たちに観ていただけたらと願っています」

『遠い山なみの光』

監督・脚本・編集/石川 慶
原作/カズオ・イシグロ
出演/広瀬すず、二階堂ふみ、吉田 羊ほか
9月5日(金)より全国公開
https://gaga.ne.jp/yamanami