芥川賞作家の吉田修一の小説『国宝』は歌舞伎役者の一代記。生い立ちも才能も異なるふたりが芸の頂点を目指してたどった人生を上下巻、800ページに渡って描き出した大長編である。

映像化はとうてい不可能だと思っていたこの小説が、主演の吉沢亮、横浜流星をはじめとする俳優たちの果敢な挑戦によって、情熱のほとばしる素晴らしい映画になったことに、まずは惜しみない拍手を送りたい。李相日監督が吉田修一作品を映画化するのは『悪人』(2010年)、『怒り』(2016年)に続いて、3作め。ハードルの高い題材に、満を持して真正面から挑んだ。
文庫版では解説を書かせていただいたけれど、振り返れば歌舞伎座で吉田修一さんにバッタリ遭遇したのは2015年12月だから、もう10年も前になる。
デビュー作の『最後の息子』でインタビューさせていただいて以来、新刊が出るたびに幾度も取材でお会いしてきたけれど、歌舞伎にハマっていたとは知らなかった。驚いて訊ねたら、新しい小説を構想中とのこと。この時、上演していた演目が『積恋雪関扉(つもるこいゆきのせきのと)』。大友黒主は尾上松緑さん、前半の小町姫を中村七之助さん、後半の墨染を坂東玉三郎さんが踊るという圧巻の舞台だった。

実は吉田さんは、映画『国宝』にも出演、歌舞伎監修もしている中村鴈治郎さんのもと、当時、黒衣として潜入取材もしていた。襲名興行が控えていた鴈治郎さんは、快く吉田さんを受け入れ、黒衣の衣装一式まで仕立ててくれたというから、なんという懐の深さよ。その頃、私が観たいくつかの演目でも、吉田さんは黒衣として舞台裏にいたらしい。
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図らずも『国宝』は、この『積恋雪関扉』で幕を開ける。
ファーストカットは喜久雄(少年時代、黒川想矢)の背中に真っ白なおしろいをぬるシーン。きゃしゃな首筋も艶めかしく、女形へと変貌するまさにその瞬間だ。
父親の立花権五郎(永瀬正敏)が組長を務める立花組の正月の宴席の余興として、喜久雄は『積恋雪関扉』の墨染を踊る。芸こそ未知数だが、その類まれなる美貌は、客として訪れていた歌舞伎役者の花井半二郎(渡辺謙)の目にとまる。その夜、抗争によって父親を亡くした喜久雄は、半二郎に引き取られ、歌舞伎の道を歩み出す。
半二郎には喜久雄と同い年の実の息子、俊介(少年時代、越山敬達)がいた。かくして、任侠の世界から身ひとつで飛び込んだ喜久雄と、御曹司として将来を約束されていたはずの俊介は、生涯のライバルとして火花を散らすことになる。
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何と言ってもこの映画の最大の魅力は、波乱万丈のふたりの人生のドラマが、舞台の上の名場面と絶妙に重なり合いながら物語られていくところにあるだろう。


喜久雄を演じた吉沢亮を情熱を秘めた月とするなら、俊介を演じた横浜流星は屈託のない太陽。コントラストが際立つふたりがひとたび舞台にあがると息の合った演技を見せるのだが、歌舞伎役者のこしらえをした時のハマり方、違和感のなさにまず驚いてしまった。
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俊介が父親の半二郎と踊る『連獅子』を幕の影から見つめる喜久雄……いやもう、半二郎役の渡辺謙にしても、当代一の二枚目役者をほうふつとさせるたたずまい。さらに人間国宝の女形、小野川万菊を田中泯が演じている。坂本龍一が構成を手掛けた舞台『TIME』でも神がかった存在感を見せたこの人を、よくぞこの役にキャスティングしてくれた。わずかにビブラートさせた声、話し方、眼差し、そのラスボス感たるや、出てくるたびに息をのむ。
ちなみに原作の小説では喜久雄と俊介が初めて観る万菊の演目は『隅田川』だけれども、映画では『鷺娘』に変更したことが物語の伏線として効いてくる。そもそも白鷺の精が娘の姿となって恋を語る舞踊『鷺娘』は、バレエの『瀕死の白鳥』に感激した六代目菊五郎によって、最期には死んでしまう現在の演出に変わった。そういう演目を、今度は暗黒舞踊の土方巽に師事した筋金入りのダンサーでもある田中泯が踊る。この映画には舞台ファンなら見逃せない、そんな異種格闘技のようなお楽しみも散りばめられている。万菊(田中泯)が踊る『鷺娘』を観られるだけでも「ありがとう」と言いたいくらいだ。
映画でも、万菊の舞台を観た喜久雄が思わず「こんなもん、女ちゃうわ。化け物や」とつぶやくと、俊介が「確かに化け物や。せやけど、美しい化け物やで」と返す。異形の者感を漂わせる人間国宝の万菊は、そこにいるだけでこれからふたりがたどる修羅の道を感じさせ、彼らが目指す遥かな到達点を体現した存在でもあるのだ。
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そうして、初めてふたりで踊った『二人藤娘』が評判となり、女形の大作『二人道成寺』に挑むことに。このまま順風満帆かと思いきや、交通事故で舞台を降板することになった半二郎に代わり、実の息子の俊介ではなく、部屋子の喜久雄が『曽根崎心中』のお初に抜擢されたことが、ふたりの明暗を分かつ。この『曽根崎心中』が、またしても映画ならではの息を飲むクライマックスの伏線となっていく。
才能か、血筋か。
舞台裏の怒涛の人間ドラマが、残酷なまでに美しい舞台の名場面と重なり合い、光と影を映し出す。芸の道を究めようとあがく、ふたりの軌跡は舞台のシーンを抜きには語れないとはいえ、まさかここまで吹き替えなしで踊り、体当たりで演じ切ってくれるとは!

交わす目線ひとつにも、そこに至るまでのふたりの想いがあふれ出し、その所作の一挙手一投足に宿る情熱に惹きこまれる。いや、情熱という言葉では足りない。求めれば求めるほど、多くを失って、それでも求めずにはいられない。ひとつの道を究めようとした人間の業。その果てのなさ、美しさ。底知れぬ深い闇をのぞき見たものだけが手を伸ばすことのできる光を、駆け抜けるように目の当たりにする、怒涛の2時間55分。あっという間だった。
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かつて中村吉右衛門さんが演じる『勧進帳』の弁慶を観た時、すぐそばの席にいた女性が思わず「どうしたら人間があんなに大きく見えるんでしょう」とつぶやくのを聴いて、「ああ、本当に」と、いま観たばかりの舞台の余韻をかみしめながら、しびれるように思った。
人は儚い、しかしとてつもなく大きいことを、私は歌舞伎から教えてもらったと思っている。歌舞伎の魅力はいくつもあるけれど、歌舞伎を愛する者のひとりとして言わせてもらうなら、そこに底知れぬ何かがたぎっているかどうか。この映画にはふつふつとそれがたぎっていた。
自分が持っていないものを相手は持っている、
歌舞伎を観たことがなくても、ないものねだりの葛藤にあがいたことがあるのなら、傷つけあいながらも、お互いの魅力に惹かれずにはいられない、ふたりの歩く道に惹きこまれずにはいられないだろう。
『国宝』
原作/「国宝」吉田修一著(朝日文庫/朝日新聞出版刊)
監督/李相日
出演/吉沢亮 横浜流星/高畑充希 寺島しのぶ 森七菜 三浦貴大 見上愛 黒川想矢 越山敬達 永瀬正敏 嶋田久作 宮澤エマ 中村鴈治郎/田中泯 渡辺謙ほか
2025年 日本映画
2時間55分 全国東宝系にて公開中
https://kokuhou-movie.com
©吉田修一/朝日新聞出版 ©2025映画「国宝」製作委員会