奇跡の温泉街、城崎にはなぜ著名建築家が集まるのか?

  • 文:Pen編集部

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かつて、温泉街は文化とつながっていた。

戦前、数多の作家たちに愛されていた全国各地の温泉街。しかし、戦後の好景気により1980年代にかけて旅館数は増加し続け、団体旅行が人気を博すと各温泉街の旅館の大型化が起きる(そのような旅館が飲食店や土産物店を揃えて宿泊客を囲い込んだことは、のちに温泉街の活気を失わせたことにもつながるのだが)。こうして日本の温泉街は活況を呈した成熟期に入るも、この時、温泉街は文化と距離を置いてしまったといっても過言ではない。その後、バブル経済崩壊の不景気による団体旅行客の大幅減少で、廃業・倒産する大型旅館も相次いだ。いま国内に残る、閑散とした温泉街の背景にはこのような歴史があった。

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JR城崎温泉駅から鮮魚店の多い大通りを過ぎると現れる、城崎温泉の街並み。日本海にも近く、ゆったりとした空気が流れる。

そんな中、文化とのつながりを取り戻し、現在幅広い世代が訪れている稀有な温泉街が、兵庫県の北端に位置する城崎温泉である。湯治として訪れた志賀直哉が自身の経験をもとに執筆した『城の崎にて』で知られるが、志賀の薦めで白樺派の作家たちも通い、多くの作中に当地の名が記されている。近代には与謝野晶子、島崎藤村、司馬遼太郎など、著名な歌人や作家、画家、学者が訪れる。

また、城崎温泉は外湯文化も備えている。各旅館では内湯風呂の大きさを制限したり、どの外湯にも入れる外湯券を宿泊客に配布したりと、決して客を宿の中に囲い込まない。「駅が玄関で旅館は客室、柳並木の道が廊下で外湯は大浴場、土産物店が売店で飲食店は食事処」とは、城崎でよく耳にする台詞だ。各旅館同士が協力し、温泉街全体がひとつの宿となって、旅人をもてなしている。

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7月末に行われた「建築と温泉」をテーマにしたイベント。このイベントの内容は、冊子形式の『建築と温泉』として2023年末に発行予定だ。

そして志賀の来湯100年の2013年に、次なる100年の温泉地文学を送り出すべく、若手の旅館経営者で構成される城崎温泉旅館経営研究会が「本と温泉」という出版レーベルも立ち上げている。「本と温泉」はこれまでに、湊かなえや万城目学など現代の人気作家に城崎をテーマに書き下ろした小説を出版。

10周年を迎えた2023年7月30日~31日には「建築と温泉」というイベントを開催した。若手の旅館経営者と建築家がタッグを組んだ、個性的な温泉宿が増えてきまた近年。「まち全体がひとつの旅館」という従来より城崎温泉にあった見立てを軸に、建築家とともに古きよき温泉文化を更新している。

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登壇した9人の建築家と、ファシリテーターの幅允孝。それぞれの仕事を紹介しつつ、トークが進む。

イベント開催中の31日には城崎温泉の宿を手がけた建築家が登壇し、トークショーを行った。登壇したのは、魚谷繁礼、垣田博之、小林恭・マナ、笹岡周平、二俣公一、堀部安嗣、松井亮、吉田愛。ファシリテーターはブックディレクターの幅允孝といったように、著名なクリエイターが城崎に集結。

なぜ、このような第一線で活躍する建築家たちが、旅館数全74軒だけの小さな温泉街に集まるのか? 幅が問いかけたところ、「宿の経営者たちの街を変えたいという熱意や、街全体の共栄を願う精神に惹かれた」という答えが返ってきた。城崎温泉は、他の多くの地域の街づくりのように行政が引っ張るのではなく、各宿の経営者たち自らが積極的に動くことで、驚異的なスピード感でさまざまなプロジェクトが進んできたのだ。

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会場となった三木屋旅館を手がけたのは、建築家の二俣公一だ。写真は三木屋旅館の客室の一部。

実は、城崎の歴史の中で、このように外の建築家たちが街に関わった前例が過去にもあった。1925年に起きた北但大震災の時のこと。多くの旅館が壊滅状態に陥る中、当時の城崎町長・西村佐兵衛氏が、東京の建築家である吉田享二や岡田信一郎に復興計画などを依頼。ふたりは城崎に赴き、一の湯やまんだら湯、城崎小学校の建築などに尽力した。

温泉と学校を建てることで、街を支援したわけである。最近また新たなカフェやショップなどもオープンして賑わいを見せる城崎。まさに現在も、文学や建築などの文化とともに発展を続ける温泉街なのである。