80年代ポップスについての、作詞家と作曲家の相関図をつくってみた。ここで中心に置いたのは、作詞家の売野雅勇である。
1981年に作詞家デビューした売野雅勇の最初の大ヒットが中森明菜『少女A』。この作曲は芹澤廣明。売野・芹澤は、その後、「涙のリクエスト」「星屑のステージ」「ジュリアに傷心」「OH!! POPSTAR」らチェッカーズ初期の大ヒットを生でいく。
ラッツ&スター「め組のひと」の作曲者は井上大輔だ。この売野・井上の組み合わせでは、郷ひろみの「2億4千万の瞳-エキゾチック・ジャパン」の大ヒットもある。スケールの大きな80年代らしい2大名曲は、それぞれ資生堂、国鉄のCMソング。
さて、この関係図は、売野を中心に6人の作曲家たちが軸になっている。芹澤、井上以外には、筒美京平、鈴木キサブロー、林哲司、和泉常寛ら。そこに代表的な歌手たち、シンガーソングライターたち、その代表曲を並べて「売野雅勇人物相関図」をつくった(2023年7月15日開催の『売野雅勇40周年コンサート』パンフレットより転載したもの。代表曲のチョイスについては、あくまで速水の独断である。デザイン=ワールド・ワイド。下間ゆかり)
僕のフェイバリットは、売野雅勇=林哲司のコンビである。代表的楽曲は、稲垣潤一「思い出のビーチクラブ」。稲垣潤一には売野=筒美コンビの「夏のクラクション」もある。関係図として、稲垣潤一のような存在は、両者から線がつながる重要なもの。
この相関図では、菊池桃子の立ち位置も重要だ。80年代の菊池桃子曲は、すべて林哲司の手によるもの。作詞家は複数存在した。後期の楽曲の作詞で売野が関わる。ラ・ムー時代の直前、つまり80年代後期菊池桃子の代表曲は「ガラスの草原」「Nile in Blue」辺り。この頃のレベルの高さは、今の再評価の流れの中でも、まだ足りていない領域だろう。そして、菊池桃子のキャリアは、ラ・ムーへと続く。
いまのラ・ムーへの再評価は、いまさら確認するまでもないが(当時は過小評価されていた。再評価のきっかけは正確には把握できて ないが、Night tempo よりずっと早くからtofubeatsが注目していたのは記憶している)。ラ・ムーの作曲家は和泉常寛である。シングルの知名度で言えば、「愛は心の仕事です」「少年は天使を殺す」だが僕の一押しは最後のシングル「青山Killer物語」。後出しジャンケンではない。中学生だった当時も、その後、僕がラジオのパーソナリティーとして自分で選曲をしたときも、何度もかけた。当時を抜かせば、地上波のFM局で、ラ・ムーをもっとも流した選曲家は僕だと革新する(いや選曲家ではない)。ちなみに売野・和泉ではカルロス:トシキ&オメガトライブ「アクアマリンのままでいて」などもある。
関係図の全体は語り尽くせない。売野・京平コンビでは河合奈保子「エスカレーション」、本田美奈子「殺意のバカンス」といった名曲がある。また、売野雅勇・鈴木キサブローの組み合わせでは中村雅俊「想い出のクリフサイド・ホテル」、堀ちえみ「青春の忘れ物」とこれまた違う風味の名曲がごろごろある。もっと曲数を増やし、複雑に結ぶこともできるだろうが、パンフレットの見開きページ用ゆえ、スペースの限界もありご容赦。語り足りないことばかり。矢沢永吉や坂本龍一らとの仕事も……。
ポップスは、分業制だ。職業作詞家、職業作曲家、そして編曲家と歌い手の組み合わせの配分から魔法が生じる。その後のJ-POP時代以降は配分も変化する。ただ関係図をつくるのがおもしろいのは、断然1980年代である。
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■僕が勝手につくったプレイリスト
1.「売野雅勇『砂の果実』文庫版公式、読みながら聴きたいプレイリスト」(Spotify)
<Thanks For>
~売野雅勇 作詞活動40周年記念 オフィシャル・プロジェクト~ MIND CIRCUS SPECIAL SHOW それでも、世界は、美しい〜
https://masaourino40.com
↑僕、速水が、パンフレットの編集を担当しました。