伊達政宗は世代が違えば天下統一できた?! 芸術や文化にも造詣の深かった戦国武将3選

  • 文:島崎晋
  • イラスト:阿部伸二(Karera)
  • 監修:渡邊大門

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戦国時代ゆえに戦場での活躍ばかりに目を向けられがちな武将だが、さまざまな文化や芸術に造詣の深かった武将も多く存在した。

ここでは、そんな教養人としての顔に注目したい3人を取り上げ、彼らについての逸話や最新の歴史的評価について紹介する。なかには「大悪人」との評価が根付いている武将が、意外にも天下統一に近かったという新説も。歴史を知ることで、現代社会を生き抜く参考になる側面もあるかもしれない。

明智光秀はなぜ「本能寺の変」を起こしたのか? 「関ヶ原の戦い」で真の裏切り者は誰だったのか? 戦国時代には多くの謎が残され、そんな歴史の悪戯が人々の興味関心を惹きつけることで、それらを題材としたエンターテインメント作品も数多く生まれてきた。一方で、近年の研究でわかった事実もたくさんある。上杉謙信の度重なる北条攻めには意図があったこと、“悪人”の汚名を着せられた松永久秀は冤罪の可能性があったこと……。現在発売中のPen最新号「戦国武将のすべて」では、あらゆる角度から戦国武将の実像に迫る!

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伊達政宗

世代が違えば、頂点に立てた奇才

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伊達政宗(だてまさむね)●1567~1636年、陸奥国・仙台城(宮城県仙台市)/ 南奥羽の戦国大名。混戦状態が長く続いた奥州だったが、摺上原の戦いで反伊達連合軍に勝利したことで覇者として君臨。しかし豊臣秀吉に降伏し、秀吉の死後は徳川家康、秀忠、家光の3代に仕えた。

20年、いや、せめてあと10年早く生まれていれば、天下取りに加われたはずなのに。東北地方ではそう言って惜しむ声も強い。常識にとらわれない行動、断じてあきらめない意志の強さ、そして比類なき強運。織田信長と同世代なら天下取りの本命になれたはず。伊達政宗はそれほどの逸材だった。

政宗は米沢城主・伊達輝宗(てるむね)を父に、山形城主・最上義守(もがみよしもり)の娘を母に生まれた。南奥羽の混戦状態から頭ひとつ抜け出すことに成功するが、そこで秀吉から軍事行動停止と小田原参陣の命令が届く。会津磐梯山の「摺上原(すりあげはら)の戦い」で蘆名(あしな)氏との戦に区切りをつけてから出立した政宗。道中の安全を考慮し、迂回路を取ったことも重なり、大幅に遅参する。危うく首が飛ぶところ、政宗は秀吉からの使者に対し、なんと来訪中の千利休に茶の湯を習いたいと申し出た。これを耳にした秀吉の怒りは、逆に好奇心へと急変。政宗は改易を免れることができた。

秀吉没後は徳川家康に接近。関ヶ原の戦いでは上杉景勝(かげかつ)から領土を分捕るつもりが戦果は乏しかった。また、ヨーロッパとの直接交流を構想して、遣欧使節の派遣も行うが、江戸幕府により鎖国に転じたため実現不可に終わった。

当時の武将としては長寿で、能楽や漢詩への造形も深く、料理にも精通。家光に豪勢な膳を振る舞ったこともある。

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細川藤孝(細川幽斎)

家門存続を重んじた、文化人武将の矜持

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細川藤孝(ほそかわふじたか)、細川幽斎(ほそかわゆうさい)●1534~1610年、丹後国・田辺城(京都府舞鶴市)/ 関ヶ原の戦いでは周囲を西軍に囲まれながらも、東軍に加担していた。一族の命運かかる大事な局面にあたっては私情に流されることなく冷静な判断を下し、主君や親友からの要請も躊躇なく断った。

姓と名を何度も改めているが、ここでは細川幽斎で通すとする。もとは幕臣で将軍の御供衆のひとり。13代将軍・足利義輝が三好三人衆らの手で弑殺(しいさつ)された後、実兄の三渕藤英(みつぶちふじひで)らとともに、監禁されていた義輝の弟の覚慶(かくけい=のちの15代将軍・義昭)を救出。ともに逃避行を重ね、近江、若狭を経て、越前の朝倉義景を頼った。

しかし、義景は越前一国の支配に満足して、上洛の意志をもたない。そこで新たに足軽衆となった明智光秀が橋渡しとなり、美濃国を制したばかりの織田信長を頼り、永禄11年(1568年)9月には、晴れて上洛を果たした。

幽斎は文武両道。塚原卜伝(つかはらぼくでん)から剣術、千利休から茶の湯を学び、和歌にも精通して『古今和歌集』の解釈を秘伝のかたちで会得する「古今伝授(こきんでんじゅ)」の伝承者。当代きっての文化人だった。そのような人物であれば、既存の秩序を重んじる側に立ちそうだが、上洛後の幽斎はそれまでと打って変わり、徹底した現実主義者となった。

義昭と信長の関係が悪化すると、躊躇なく信長を選び、「本能寺の変」後の明智光秀からの協力要請に応じず、光秀を見殺しにした。嫡男の忠興(ただおき)の正室に光秀の娘を迎えるなど、公私にわたる深い関係にあったのだが。大義に殉じるよりも一族を守り抜く。幕臣から信長の家臣に転じた後の幽斎は振り切れていた。

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松永久秀

後世まで語られた、大悪人の実の姿とは

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松永久秀(まつながひさひで)●1508~1577年、大和国・信貴山城(奈良県生駒郡)/ 三好長慶の右筆(ゆうひつ)から片腕へと成り上がり、長慶の死後は三好三人衆と対立。形勢不利と見るや織田信長に身を投じるも、信長にも二度まで背き、二度目の謀反時に追い詰められ、自害した。

江戸期の軍記物語では「三悪を為した大罪人」として語られる松永久秀だが、冤罪の可能性が高い。茶の湯を嗜み、芸術品に目が利く文化人であったと考えられる。

久秀の三悪とは、将軍足利義輝を手にかけ、東大寺の大仏殿を焼き払い、恩ある三好長慶の嫡男である義興(よしおき)を毒殺したことを指す。しかし実のところ、義輝弑殺に加担したのは家督相続済みの嫡男の久通(ひさみち)で、大仏殿の炎上が久秀の仕業でないことは宣教師ルイス・フロイスの『日本史』からも明らか。義興の毒殺も確証がない。

不名誉な罪を押し付けられた原因は、おそらく彼が下克上の申し子であったことにある。三好長慶の死後、一族の有力者からなる三好三人衆と仲違いし、都の周辺で合戦を繰り返していた久秀。

織田信長が足利義昭を擁して上洛すると降参するが、大和一国の制圧を悲願とする久秀には、興福寺を背後にもつ筒井順慶(つついじゅんけい)の存在が煙たくてならない。信長が順慶の所領を承認すると、足利義昭の呼びかけに応じるかたちで信長に反旗を翻すが、形勢不利と見るとすぐに降伏。多聞山城(たもんやまじょう)を明け渡して、代わりに信貴山城(しぎさんじょう)を築いた。

天正5年(1577年)に再度謀反を起こすが、すぐさま城下まで攻め寄せられる。名器の平蜘蛛と引き換えに助命してやると信長に言われるも、これを拒んで天守に火を放ち自害した。

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