音楽雑誌『MUSICA(ムジカ)』の創刊編集長であり、音楽フェス「VIVA LA ROCK」のプロデューサーでもある鹿野淳さん。ミスター・チルドレンとはデビュー前からの長い付き合いだそうだ。これまで音楽ジャーナリストとして幾多のアーティストを見てきた鹿野さんだが、彼らには 最初から特別なものを感じていた という。
「いままで取材してきたアーティストに『すぐにアルバムが100万枚売れるようになります』と話したことはわずか2回しかありません。1回目はJUDY AND MARY結成直後のYUKIさん、残りはまだデビュー前だったミスチルの桜井和寿さん。出会った当初から、そんなきらめきを感じていました」
ミスター・チルドレンがメジャーデビューした1992年は、ロックバンドがポップな音楽で売れ るのは「ダサい」と思われていた時代。しかし、鹿野さんはミスター・チルドレンにはそんな常識を覆すポテンシャルがあることを見抜いていた。
「当時のロックバンドが二の足を踏むような大衆性を恐れず、大きく踏み出す覚悟をミスチルには感じました。ギリギリのところを攻める先駆者だったのです」
鹿野さんの直感が正しかったことは、既にいままでの歴史が証明している。ミスター・チルドレンはデビューからわずか数年で大ブレイク。それから 30 年にわたって常に第一線で活躍している。なぜ彼らはいまもトップを走り続けられるのだろうか。その理由を「彼らがいい意味で臆病だからだと思うんです」と鹿野さんは解説し、 こう説明する。
「ヒット曲だけが生き残ってアーティストの存在感が残らないことに対する恐怖心が、桜井さんからはものすごく感じられます。ミスチルの存在ならば3年ぐらい休んでも大丈夫だと思うじゃないですか? でも桜井さん自身がいちばんそう思っていないと感じるのです。成功を収めたバンドが昔の作品に固執せず、常に現役であろうとするのは大変です。でもミスチルはそこに本気で向き合うからこそ、いまでもライブで『innocent world』をやれば、出来たてホヤホヤの曲のように届けることができるのだと思います」
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横浜アリーナの3 曲目に演奏した「NOT FOUND」は、本当にグッと来ました
では、ジャーナリストとしてデビュー前からミスター・チルドレンを追ってきた鹿野さんにとっ て、これまでで最も印象深い瞬間とはいつだったのか。 鹿野さんが挙げてくれたのは、 2002年 12 月、横浜アリーナでのライブ。同年7月、桜井和寿の体調不良により、ミスター・チルドレンは直後に控えていたツアーをすべてキャンセルすることになった。その後、病状が落ちついた年末に代替として一夜限りで行われたのが、この横浜アリーナでの特別ライブだ。
「3曲目に演奏した『NOT FOUND』は本当にグッと来ました。後で聞いた話ですが、あの曲は声を振り絞って歌うので、病み上がりの桜井さんにはドクターストップがかかっていた。でも桜井さんはむしろ、観客に心配されるようなライブは絶対に嫌だったようで。みんなへの想いで、あえてあの曲を歌った。その気迫が伝わってきたんです」
ライブ終演直後、鹿野さんは楽屋での取材が予定されていた。その場での桜井の姿に、誰もが共感できる「国民的バンド」たるゆえんを感じたという。
「僕が楽屋でスタンバイしていたら、桜井さんが『少しだけ待って』と話してきたんです。ライブ直後だからインタビュー対応のため調子を整えるんだろうと思っていたのですが、彼は幼い息子を抱っこしていたんです。あの瞬間に、ミスター・チルドレンの音楽は、世代や性別や職種を超えたあらゆる人の日常とつながっている気がして、この上なく感動しました」
ミスター・チルドレンと仕事をしてきた鹿野さんの30年間は、仕事人生と重なっている。国民的人気のバンドと同時代を並走してきたことに関してどう考えているのだろうか。
「僕は彼らに自分の仕事人生を投影しているところがあります。もしミスチルが活動休止や解散をしたら、自分もリタイアを考えるだろうなと。つまり僕の仕事人生における背骨みたいなものなのです。感謝してもしきれない。彼らがいまも走り続けていることは、自分が現役であることの誇りでもあるのです」
鹿野 淳 (FACT代表)●1964年、東京都生まれ。音楽雑誌『BUZZ』、『ロッキン・オン・ジャパン』の編集長を歴任後、独立。出版社FACTを設立し、音楽雑誌『MUSICA』を創刊。2014年より音楽フェス『VIVA LA ROCK』を主催している。
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