『ナイル殺人事件』を観て思う、世界の移り変わり

  • 文:速水健朗

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©️2022 20th Century Studios. All rights reserved

映画『ナイル殺人事件』を観た。ケネス・ブラナー(監督、主演)が『オリエント急行殺人事件』(2018)に続き、ポアロシリーズの2作目として映画化したもの。原作は、アガサ・クリスティ屈指の代表作だ。 1937年のエジプトが舞台。ヒロインのリネットは、親友ジャッキーの彼氏サイモンを奪って強引に結婚。そして、新婚旅行の行き先はエジプト。ナイルを遡上する豪華客船には、彼女が誘った関係者たちが乗り込むが、そこにはサイモンへの未練を捨てられないジャッキーも付きまとう。なにかが起こりそうな不穏な空気と夕陽でナイルは赤く染まっている。

原作を読んだのは30年以上前のことだが、映画版の大きな設定変更には気がつく。原作では作家(というかクリスティ自身を投影した人物)だったサロメ・オッターボーンの職業がブルース女性シンガー(またはブルージーなジャズシンガーかも)に変わっている。エジプトとブルース。物語が進む中、懸命に両者のつながりを考えていた。ナイル川とミシシッピ川という共通点? デルタ地帯とデルタブルース………。そうか、メンフィスか。テネシー州のブルースの聖地として知られる町の名前は、エジプトの古代都市に由来している。ミシシッピの肥沃な地域をナイル流域に見立てたのがネーミングの由来だろう。

映画には、セットで実物大に再現された巨大なラムセス2世像が登場する。古代首都メンフィスの神殿入り口に立っていた像だ。エジプトとブルース。犯人やトリックとは別に仕かけられたミステリー(ここはバラしてもネタバレではならないかと)。 船に集まる人々の構成は、当時のイギリス社会の縮図に見える。

リネットは、アメリカ人の金持ちの娘。夫は仕事を失った英国人。探偵ポアロは、戦争で祖国ベルギーを離れた亡命者。黒人のシンガー、リネットの従兄弟で財産管理人は、インド系。アンドリュー・カチャトリアン(原作ではペニントン)を演じるのはボリウッド俳優のアリ・ファザル。他にも元貴族や共産主義にかぶれた金持ちなどが登場する。

和気あいあいといろいろな人々の集まりだが、鉄道、蒸気船、航空機といった交通テクノロジーをもって世界の領主になっていた当時のイギリスの覇権の縮図でもある。 黒人やインド人が主要登場人物に組み込まれているのは映画オリジナルの設定だ。宗主国の富裕層と植民地出身の者が、1930年代に同じ観光船に乗り合わせる状況が有り得たかという疑問は当然だが、リメイクに当たって時代の忠実な再現でなく、現代らしさを組み込んだ意図も見える。

宣伝コピーの言葉を借りると「愛と嫉妬と欲望が複雑に絡み合う」物語。“愛”のあり方に現代のアレンジが組み込まれているのだ。すべてを言うのは野暮なのでこのあたりまでにしておこう。ちなみに、原作にある船の客室の一等と二等の区分けも廃されているのにも気がつくはず。 細かい設定や背景からは、イギリス帝国の最末期であることも見えてくる。裕福そうに見える登場人物たちは、実は皆一様に没落していることが戦争によって亡命を余儀なくされた小国出身のポアロの灰色の脳みそによって暴かれる。世界恐慌から10年弱。英連邦は、粋内へのひきこもりを進め、多角的な自由貿易を放棄する。このブロック経済によって世界は分断され、新しい国際秩序が育まれていった。アメリカ、ドイツ、日本の新興国の台頭もこれに絡んでくる。

この後の世界がどうなるのかは言うまでもない。 恐慌から約10年をかけて進もうとしていた世界の分断。現代と比較しないではいられない設定だ。リーマンショックから十余年を経て、鉄のカーテンが再び降りる時代に突入している。

『ナイル殺人事件』本ポスター.jpg
映画館だけで大ヒット上映中。『ナイル殺人事件』 ウォルト・ディズニー・ジャパン ©️2022 20th Century Studios. All rights reserved

速水健朗

ライター、編集者

ラーメンやショッピングモールなどの歴史から現代の消費社会をなぞるなど、一風変わった文化論をなぞる著書が多い。おもな著書に『ラーメンと愛国』『1995年』『東京どこに住む?』『フード左翼とフード右翼』などがある。

速水健朗

ライター、編集者

ラーメンやショッピングモールなどの歴史から現代の消費社会をなぞるなど、一風変わった文化論をなぞる著書が多い。おもな著書に『ラーメンと愛国』『1995年』『東京どこに住む?』『フード左翼とフード右翼』などがある。