1964年、街頭テレビはこんなに小さかった! 身近なモノのサイズを考える

  • 文:速水健朗

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1964年、新橋駅前広場。街頭テレビで女子バレー、日本対ソ連戦を見る大勢の人たち。当時のテレビのサイズは、こんなにも小さかったのだ。写真:毎日新聞社 

先日、バブル経済のちょっと後の時代に流行った、代官山のとあるレストランに出かけた。ここは地下に駐車場があるのだが、利用者はみなクルマの出し入れで苦労していた。スロープの先に急なカーブ(ほぼUターンするレベル)があり、1度か2度バックして切り返さなければ曲がりきれない。特にいまどきのSUVのサイズでは無理だ。この30年でクルマの横幅は20cmくらいデカくなっている。なので古い設計の駐車場ではこうしたことが起こり得るのだ。

デカくなったといえば、バスケットボール日本代表男子(スタメン)の平均身長が2mを超えていた。勝ち負けはともかく、身体の大きさに驚く。戦後、日本人の平均身長は既に伸び止まっているにもかかわらず。最近のNBAでは高身長化は打ち止めで、スピードや戦術を重視する流れもあるという。身長だけでは勝てない模様。

さて、このコラムで考えたいのは、モノのサイズについてだ。今回のオリンピックでは当初、大規模パブリックビューイングで600インチ以上のサイズの巨大ディスプレイでの8K放送が予定されていたと聞いた。僕は都市を観察対象とする物書きで、会場でのゲーム観戦よりも、街の広場やスタジアム周辺に設置されたであろう大きなディスプレイの勇姿を見ることを楽しみにしていたので、これが叶わなかったことはかなり残念だった。

パブリックビューイングはいまどきの都市文化を代表するものだが、その原型をかつての街頭テレビに見ることができる。渋谷駅、品川駅など55箇所、220台のテレビが往来に設置されたが、新橋駅前の広場には、2台のテレビ目当てに1万2000人が集まった。1953年の話。驚くのは人数よりも当時のテレビのサイズだ。人々が見たディスプレイは21型または27型(インチ)だった(『テレビが見世物だったころ』飯田豊著)。これでは、最前列でも力道山が豆粒サイズに見えただろう。最近では一泊3000円のビジネスホテルにも、もっと大きなテレビがある。

思い起こすと子どもの頃、我が家(昭和の頃の話。団地住まいの典型的サラリーマン家庭)のリビングに置かれていたテレビが17型だったが、ある時(おそらく昭和末期くらい)20型になった。それでも十分大きいと思ったものだ。ハイビジョンになりデジタルになると、放送のデータ量も変化する中で、テレビ自体もしだいに大型化していった。一方、個人が動画を観る時のディスプレイの標準サイズは、小さくなっていったことも重要だ。個人向けの標準的なディスプレイとはスマートフォンのこと。いまどき大抵の動画はこちらで観られている。

さて、画面はデカくなり、小さくもなった。整理すると、リビングのテレビのディスプレイサイズは大きくなり、コンピューターが小さくなったということ。半導体の集積率は、18カ月で2倍になる。これは、「ムーアの法則」である。ムーアの法則は、サイズをめぐるものでもある。同性能のCPUの製造コストは、1年半で半分になると言い換えることができる。イノベーションはある時期に急速に進むかのような印象を抱きがちだが、コンピューターの小型化は、一定の法則のもとで進んできたのである。テレビのサイズにこれと同じような法則は多分ない。ただやはり、テクノロジーのコストが関わっているのはわかる。視覚情報の一単位(走査線数、ドット等)を表示する装置の生産コストが一貫して下がっている。それがテレビの巨大化の裏で起きていると考えるのがわかりやすい。

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ここ数年のトレンドである、オーバーサイズのシャツやアウターを用いた着こなし。バレンシアガ2018年メンズ春夏コレクション。photo by Getty Images

話は変わるが、洋服の話。ここ数年は、オーバーサイズの流れがある。この流れの前提として、少しだけ服とサイズの歴史を振り返っておく。服のサイズ表記S・M・Lは、世界恐慌の時代の後の時代に生まれている。当時の米政府はニューディールとして多くのプロジェクトに資金を供出した。その中に片っ端からアメリカ人の身体のサイズを調査する計画があった。景気対策の財政出動だから使い途はピラミッド建設でも黄金の風呂釜の建造でも構わなかった。この大規模統計調査は、既製服の市場を生むきっかけになる。かつてバラバラのサイズで商品をつくっていた服飾メーカーは、この体型をめぐる統計調査の結果を踏まえて服のサイズの標準化を進めた。サイズ表記S・M・Lが決まると、その基準をもとにした既製服の量産が可能になったのだ。

オーバーサイズの流行は、こうした標準化の逆手を取っている。体型を気にしないユニバーサルな設計の服ということ。サイズの標準化はとても20世紀らしい発想だが、その標準化を突き崩そうという発想は21世紀的だなと思う。とはいえ、オーバーサイズも、そのうちに飽きられ、別の方向に進むのだろう。さすがにダッドスニーカーはちょっと見る機会が減ってきた気がする。

さて、半世紀以上前の新橋で街頭テレビを観ていた人たちは、将来は600インチのビジョンができるなんて思っていたわけではない。予想すらしなかっただろう。代官山のレストランの地下駐車場の設計者も、四半世紀後のクルマのサイズを考えなかった。モノのサイズが将来的にどう変化していくのかを予測するのは思いのほか難しい。

ちなみに半導体の小型化を予測するムーアの法則も、当時は誰も本気にはしていなかった。むしろムーアの法則が有名なのは、常にいつの時代もその限界が指摘され続けたからだ。だが50年以上、その法則は驚くほど正確に達成されてきた(最初の指摘の10年後にムーア本人が速度について訂正しているが)。

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先日訪れた、代官山のとあるレストランの駐車場。スロープの先にUターンレベルの急カーブがあり、簡単には曲がれない。写真:Pen編集部

10年後にスマートフォンのディスプレイがいまよりも大きくなっているか。街を走るクルマはさらに大きくなるのか。そして、スニーカーのソールがどういう形状になっているのか。どれも明白な答えはない。いろいろなモノのサイズの話をしてきたが、テクノロジーやメディアの歴史を、モノのサイズと一緒に考えたりすることの面白さが伝わっていればなにより。当方はそういったことを仕事として考えているライターである。ちなみに冒頭のレストランの駐車場、僕は一度で入庫できた。30年ものの国産小型車のユーザーだからだ。クルマは小さく小回りが効くほうがいい。

速水健朗

ライター、編集者

ラーメンやショッピングモールなどの歴史から現代の消費社会をなぞるなど、一風変わった文化論をなぞる著書が多い。おもな著書に『ラーメンと愛国』『1995年』『東京どこに住む?』『フード左翼とフード右翼』などがある。

速水健朗

ライター、編集者

ラーメンやショッピングモールなどの歴史から現代の消費社会をなぞるなど、一風変わった文化論をなぞる著書が多い。おもな著書に『ラーメンと愛国』『1995年』『東京どこに住む?』『フード左翼とフード右翼』などがある。