昭和を彩ったレジェンドたちの生きざまを映した愛用品

  • 文:小暮昌弘(LOST & FOUND) イラスト:阿部伸二(karera)

Share:


独自の審美眼を貫いた日本のレジェンドたち。俳優から作家、思想家、建築家まで、彼らが身に着けた愛用品から、その生きざまも見えてくる。


高倉 健 × バラクータのG9

高倉健──1956年に銀幕デビュー、『網走番外地』シリーズをはじめとして数々の作品に出演、2013年に文化勲章まで受章した名優だ。『高倉健、その愛。』(文藝春秋刊)によれば、彼のストレス解消法がショッピングで、ファッションブランドや現地のメンズショップ事情にも通じていたとある。

そんな高倉が出演作の中でもプライベートでも愛用したのがブルゾンの名品、英国のバラクータの「G9」。スタンドカラー、ショート丈のこのブルゾンはゴルフ用として1948年に誕生したもので、“G”はゴルフを指す。高倉が鳶職役で主演した77年放映のテレビドラマ『あにき』では色違いで何着ものG9を着こなしていた。高倉が着ると、英国の名品がさらにシブさを増した。


伊丹十三 × ジョルジオ アルマーニのセーター

映画監督にして俳優、エッセイストでCM作家、イラストまで描く。伊丹十三は多彩な顔をもつ、まさに天才だ。伊丹はすべてにわたってこだわった男。ファッションにしてもオーストリア製ローデンコートから、放出品のアーミージャケット、麻布のテーラー池田屋で仕立てたチャイナ服まで、独自の審美眼で愛用品を選び抜いた。

そんな彼のお眼鏡に適ったデザイナーがジョルジオ・アルマーニ 。『メンズプレシャス 2018年冬号』では愛媛県松山市の「伊丹十三記念館」に所蔵されたジョルジオ アルマーニのセーターを掲載。縦のストライプ柄のクルーネックで、着込んだのか、肘にエルボーパッチが付いている。縫い目を見るとお手製。誰が繕ったのだろうか。


白洲次郎 × スウェイン・アドニー・ブリッグの傘

第2次世界大戦後、アメリカ占領下の日本で首相吉田茂の側近としてGHQ最高幹部と渡り合い、GHQから「従順ならざる唯一の日本人」と言わしめた男が白洲次郎だ。

ケンブリッジ大学に留学、流暢なクイーンズイングリッシュを話すまさにジェントルマン。ファッションについても、ヘンリー・プールのスーツ、ジェームス ロックのソフト帽、ジョン・ロブの靴など、英国製の老舗で選んだものがほとんど。そんな白洲が愛用したのが、スウェイン・アドニー・ブリッグの傘。1750年創業の革工房スウェイン・アドニーと傘づくりで知られたトーマス・ブリッグが合併した会社で、“傘のロールスロイス”とも称される。白洲は柄にウイスキー入れを仕込んだ傘を特注したこともあるらしい。


【関連記事】

松任谷由美のコンサートでも着た、トム ブラウンのスーツ【加藤和彦編】

吉本隆明 × コム デ ギャルソン・オムのセットアップ


詩人であり、思想家、評論家でもあった吉本隆明。1984年、吉本が60歳の時、雑誌のモデルとしてコム デ ギャルソン・オムの服を着て登場した。それに小説家で思想家の埴谷雄高が苦言を呈し、ふたりの間で「コム デ ギャルソン論争」と呼ばれる論争が起こった。このやりとりはブランドに対する評価ではなく、消費社会に対するお互いの主張の繰り返しで、喧嘩に近いと見る向きも多い。人気なだけにブランド名がひとり歩きしたのだろう。しかし論争の中で、吉本は同ブランドを「現在、そのデザイン芸術性を世界に誇りうる最上のデザイナー集団だ」と評した。文壇の論争のネタになるほど、コム デ ギャルソンの服が高い精神性をもっている証しだ。


小津安二郎 × 銀座トラヤ帽子店のピケ帽

黒澤明、溝口健二と並び、世界に誇る日本の映画監督が、小津安二郎。1949年公開の『晩春』や53年の『東京物語』などが代表作だ。彼の映画でのトレードマークといえばローアングルからのショット。同じように、着こなしでもトレードマークになっていたのが、白いピケ帽。背広と白シャツとともに必ずこの帽子を被っていた。

『いま、小津安二郎』(小学館刊)によれば、「小道具の人に1ダースずつつくらせていたと聞く」と書かれているが、老舗の銀座トラヤ帽子店で同型の帽子が「メトロ・ハット」の商品名で販売されている。素材はコットン100%。洗いをかけて仕上げられているので、小津のように毎日被らなくても、すぐに馴染んでくれるだろう。


加藤和彦 × ターンブル&アッサーのシャツ&タイ

1960年代に伝説のバンド、ザ・フォーク・クルセダーズでデビュー。作曲家としても数多くの楽曲を残した加藤和彦。音楽だけでなく、衣・食・住すべてにわたって独自のスタイルを貫いた人だ。ファッションにおいてはトム・ブラウンからヨージ・ヤマモトなどモダンなブランドまで好んだが、正統的スタイルでは英国趣味を貫いた。

80年代から加藤はロンドンでスーツを仕立てているが、そのスーツに合わせていたのがターンブル&アッサーのシャツとタイだ。英国王室御用達で100年以上の歴史をもち、世界の紳士を魅了した老舗。87年リリースのアルバム『マルタの鷹』の「コージー・コーナー」では、歌詞にこのブランド名を登場させるほど気に入っていた。


【関連記事】
フーテンの寅にオマージュを捧げた、旅心のうずくアイテム

三島由紀夫 × 蝶矢のシャツ

戦後日本の文学界を代表する作家が三島由紀夫だ。美に敏感だった三島は、ファッションについても一家言をもっていた。エッセイ『不道徳教育講座』では「流行の中から自分に似合ふものだけを摂取する、といふのは一見賢明な態度ですが、流行のほうでは、別にあなたに似合ふかどうか考へてくれるわけではありません」と辛辣。彼にとってファッションはあくまで流行で、うたかたなものと映っていた。それで三島はボディビルに励み、自分を美しく変えようとしたのだろう。

そんな三島が選んだのは、1886年創業、日本最古のシャツブランドの蝶矢シャツ。1935年頃流行した開襟シャツは同ブランドが初めてつくったとされ、三島や井上靖といった文豪にも愛された。


山口 瞳 × 一澤信三郎帆布の手提げ鞄

作家でエッセイストだった山口瞳が外出する際に愛用していたのが京都にある老舗、一澤帆布(現・一澤信三郎帆布)の手提げ鞄だ。1965年頃、店に立ち寄った山口は3代目当主の一澤信夫と意気投合し、その鞄を買い求めたらしい。

山口は使い古してボロボロに擦り切れた鞄を持参して、修理を依頼するほど溺愛していた。その鞄は現在でも記念の品として同店に大事に保管されていると聞く。東京で行われた販売会を訪ねた山口は、鞄を一度に十数個まとめて買い求めたこともあった。吉行淳之介や向田邦子といった文壇の親しい友人への贈り物として鞄を買うことも珍しくなかったという。山口が溺愛した鞄は、現在でも「17E」の品番で販売されている。


松田優作 × レイバンのサングラス

1972年放映開始の『太陽にほえろ!』や79年の『探偵物語』などのテレビドラマ、89年公開の映画『ブラック・レイン』などの代表作をもつ松田優作。いまでもカリスマ的人気を誇る俳優だ。劇中でもプライベートでもサングラスをよくかけていた松田が選んだのは、レイバンの「ウィナー」というモデル。前述の『探偵物語』や79年の映画『俺達に墓はない』でこのサングラスをかけて登場しているカットがある。

実はこのウィナー、一説には70年代にわずか1年しか生産されなかった希少なモデルで、流通本数も少なく、“幻のサングラス”といわれている。松田は出演する作品を選ぶように、独自の審美眼で希少なサングラスに手を伸ばしたのだろう。


丹下健三 × 壹番館洋服店のスーツ

“世界のタンゲ”と評される建築家の丹下健三。代々木第一体育館や東京都庁などの代表作を残しているが、丹下が着用していたのが1930年創業、銀座を代表する老舗、壹番館洋服店で仕立てたスーツだ。

『現代ビジネス』オンラインページによると、壹番館洋服店当主の渡辺新は、仮縫いで1㎜のズレを指摘され、職人として鍛えられたと語る。ときには仮縫いに6時間も、年を重ねても丹下は姿勢正しく立ち、1㎜の歪みも許さなかったという。一流の建築家はひと目で歪みを見抜くのだ。丹下は2005年に91歳で亡くなるが、同店のスーツを着てあの世に行きたいと本人から遺族に伝えてあった。丹下が最後に選んだのはグレンチェックのスーツだった。


【関連記事】
名宰相・吉田茂が愛飲した、イギリスを代表するスコッチウイスキー

※Pen2020年9/15号「あたらしい定番と、自分のための定番」特集よりPen編集部が再編集した記事です。