SF作家・小川哲さんからのメッセージ──「こんな状況で、いま自分にできること」

  • 文:小川 哲
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皮肉なことに、現在の世界はまさに「事実は小説より奇なり」、SF的とでもいえそうな状況だ。注目のSF作家である小川 哲さんは、そんな世の中に対し、なにを思っているのだろうか。編集部が声をかけ、数日経って返ってきた答えは、小川さんらしい真摯なものだった。以下、小川さんからのメッセージを紹介する。

小川 哲(おがわ・さとし)●1986年、千葉県生まれ。2015年に『ユートロニカのこちら側』で第3回ハヤカワSFコンテスト大賞を受賞しデビュー。2作目の『ゲームの王国』で日本SF大賞と山本周五郎賞を受賞。最新作『嘘と正典』は、Pen本誌2017年11/1号で書き下ろした作品『最後の不良』も収録された短編集。写真:後藤武浩

ウイルスによって人命が危険に晒されたとき、小説家にできることはほとんどありません。僕たちは感染を防ぐことも、病気を治すこともできません。僕たちにできるのは、自宅での時間が有意義なものになるよう、そっと本を紹介することくらいです。

いま、日本は──というより、全世界は非常事態に陥っています。このウイルスが恐ろしいのは、人々の健康だけでなく、日常をも冒していることです。僕たちが誰でも知っている、もっとも歴史の長い喜びである、「集まる」という行為が奪われてしまいました。いまでは集まることは、お互いが目に見えないナイフを向けあうことに変わってしまいました。そのせいで、病気に苦しむ人がいるだけでなく、病気になっていないのに苦しんでいる人も大勢います。多くの人々が、さまざまな「自粛」というウイルスの二次攻撃を受けています。

僕は小説家です。世の中には数多くの職業が存在していますが、こういった事態において、小説家はとりわけ恵まれた立場にあると思います。小説家は普段からひとりで仕事をしていますし、仕事のために外出する必要もありません。ウイルスがどれだけ世界の秩序と健康を乱そうとも、紙とペンがあればどこでも仕事ができます。もしかしたら、「小説家はコロナウイルスに対して強い」という言い方もできるかもしれません。実際に、ウイルスによって僕が受けた影響はごく軽微なものです。いくつかのトークショーが中止になり、ラジオ番組の収録が無期限で延期になりましたが、それだけです。付け加えるならば、どちらも小説家の本来の仕事ではありません。

「家にいよう」だとか、「密集を避けよう」だとか、ウイルスに対して確実に有効な手立てを僕の口から発するのが少し傲慢に思えてしまうのは、僕自身がウイルスによって日常をそれほど破壊されていないからだと思います。僕は日常が失われる前から家にいたし、ほとんど密集と関わりなく生活していました。「あなたはいいですね、人と会わずに仕事ができて」と言われてしまうと、返す言葉もありません。

世間には、病気とたたかっている人や、自粛のせいで経済的に苦しんでいる人、日常が損なわれてしまった人がいます。ウイルスに感染した友人や、仕事がなくなった友人の話も聞きました。この非常事態をなんとか乗り越えようとしている人々の輪の中に入っていいものか不安ですが、そんな状況で自分にできることといえば、本を紹介することくらいしかないでしょう。

いま、小川 哲さんが推薦する3つの作品。

人類史に隠された謎を、進化生物学、生物地理学、文化人類学、言語学など、広範な知見を駆使して解き明かした名著。『銃・病原菌・鉄』ジャレド・ダイアモンド 著、倉骨 彰 訳、草思社  2012年

『銃・病原菌・鉄』

かつてピュリッツァー賞を受賞したノンフィクションの本です。人類の歴史が病原菌によって変えられてしまったのは、今回が初めてのことではありません。畜産によって食糧を確保するようになって以来、天然痘やインフルエンザ、ペストなど、人類は様々な動物由来の疫病に感染してきた過去を持ちます。本書の狙いはヨーロッパ社会が世界に先駆けて文明を発達させた理由を探ることにありますが、その中で病原菌は重要な役割を果たしています。

街に謎の疫病が蔓延した状況を描いた、全10巻の新シリーズ開幕篇。『天冥の標』全17巻 小川一水 著、早川書房 2009~2019年

『天冥の標』

昨年十年かけてようやく完結した十七冊におよぶSF小説のシリーズで、人類や異星人たちの歴史を数百年もの規模で描いた「スペースオペラ」です。作品の中で「冥王斑」というウイルスが非常に重要な役割を担っているのですが、第二巻ではそのウイルスによってパンデミックが起こります。こんな事態になったゆえ、細かな描写にいちいちうなずいてしまいます。暇な時間に一気に読むのもいいし、空いた時間に少しずつ読み進めるのもいいでしょう。僕はシリーズの新作が発売されるたびに買い、十年かけて読みました。

不毛の赤い惑星にひとり残された男が限られた物資、自らの知識を駆使して生き延びていく。『火星の人』新版 上・下巻 アンディ・ウィアー 著、小野田和子 訳、早川書房 2015年

『火星の人』

マット・デイモン主演で『オデッセイ』として映画化もされたSF小説で、2035年の火星に一人取り残されてしまった宇宙飛行士がサバイバルをする話です。ウイルスやパンデミックとは関係のない話ですが、究極的ともいえる「隔離」状態で、それでもポジティヴに生き抜く主人公に勇気づけられる部分があるのではないでしょうか。家から出られなくなることも、火星に取り残されることに比べればだいぶマシだと思えるかもしれません。


ウイルスとの戦いは長期戦になるでしょう。もしかすると、これまでの日常を取り戻すのには何ヶ月、何年という月日がかかるかもしれません。健康に気をつけながら、可能な限り毎日を楽しみ、体だけでなく、心まで冒されないようにしましょう。何年か後に、この非常事態を振り返ったとき、なにかポジティヴな要素が見つけられるよう、新しい趣味に挑戦するのもいいと思います。本を読むのもいいですし、それ以外にもウイルスが冒すことのできない「楽しいこと」は数多く存在しています。集まることのない日常を過ごしてきた者として、なにかいえることがあるとすれば、それくらいです。