是枝監督最新作! ままならない人生に寄り添うホームドラマ、『海よりもまだ深く』が愛おしくてたまらない。

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    撮影が行われたのは、是枝監督が20代まで暮らしていた東京郊外の団地。

    テレサ・テンの歌声が切なく響く映画といえば、ピーター・チャン監督の『ラヴソング』。『再見!我的愛人(グッド・バイ・マイ・ラブ)』『涙的小雨(長崎は今日も雨だった)』といった名曲たちが、大陸から香港へとやってきたふたりをつないでいます。是枝裕和監督の新作『海よりもまだ深く』の中で深夜のラジオから流れるのは、『別れの予感』。この曲の一節から、タイトルが取られているのです。

    主人公の良多は文学賞を獲ったことのある過去にしがみついたまま、小説家としては成功できずにいる中年男。生活力のなさから妻にも愛想をつかされ離婚、小説のための取材だと称して興信所で働く毎日を送っています。仕事ではせこせこ裏金を手にして、ひとり息子にグローブを買ってあげる時にも密かに値切り、ストーカーギリギリで元妻の交際相手の調査をする、わかりやすいダメ男! そんな良多が、母がひとりで暮らす実家の団地を息子と訪れ、迎えにやって来た元妻とともに台風が過ぎ去るまでの時間をみんなで過ごすことになります。

    近年の是枝作品とくらべると、特殊な設定は用意されておらず、大きな事件も起こりません。ひたすら日常生活の細やかな描写が積み重ねられ、その狭間から小さなドラマが浮かび上がってきます。是枝監督はいつも食事のシーンを決して手抜きせずに描写しますが、本作もしかり。狭い団地の台所で冷蔵庫を開け閉めしながらふと本音がこぼれ、冷凍したカレーを使ってつくるうどんや、薄めたカルピスを凍らせたおやつから、家族が共有する思い出が自然と伝わってくるようです。

    何だかんだと言いながら息子に愛情を注ぐ樹木希林をはじめ、家族ならではの甘えや辛辣さを含んだ温度感をリアルに体現する役者は巧者揃い。観る者がパーソナルな思い出を重ねて自分の物語を紡げるよう、亡くなった父の遺影がはっきりとは映し出されない演出や、「海よりも深く人を好きになったことなんてないから生きていける」といった名言やユーモアがさりげなく織り込まれた脚本も、ものすごく緻密で完成度が高いと感じました。それでもテクニックが先行しないのは、個人的な記憶の断片をつなぎあわせてホームドラマとして再構築した監督の、“なりたかった大人になれなかった大人”たちに寄り添うまなざしが温かいからではないでしょうか。

    良多は父親失格だけれど、職場にはダメな先輩を父のように慕い、呆れながらも笑ってくれる後輩がいる。母親だってずっと団地暮らしだとは思っていなかっただろうし、息子が小説家として成功もせず、うだうだしながら離婚までされてしまう中年男になるなんて未来は思い描いていなかったはずです。それでも、ときにはクラシックを聴く会なんかに参加して、日々を楽しむことを知っています。たとえ夢が叶わなくても、ちゃんと“とりあえず”を繰り返していくのが人生で、たぶんそんな人生だって捨てたもんじゃない。“元家族”が過ごした台風の一夜の何てことない思い出は、良多の11歳の息子の心の中にずっと灯り続け、大人になっていく彼の背中をほんの少しだけ押してくれるものになるような予感がします。(細谷美香)

    養育費も払えない元夫に厳しい言葉を投げかける元妻、真木よう子(左)とのシーンにはユーモアも。

    ギャンブルもやめられないダメ男ですが、憎みきれないチャーミングな人物として描かれています。

    ©2016 フジテレビジョン バンダイビジュアル AOI Pro. ギャガ

    『海よりもまだ深く』

    監督・原案・脚本・編集/是枝裕和  
    出演/阿部寛、真木よう子、小林聡美、リリー・フランキー、池松壮亮、吉沢太陽、橋爪功、樹木希林
    2016年 日本映画 1時間57分  
    配給/ギャガ
    5月21日より丸の内ピカデリーほかにて公開。
    http://gaga.ne.jp/umiyorimo