警察幹部がなぜ鬼平を愛読?──から始まった東京での「江戸」探し

  • 文:ニューズウィーク日本版ウェブ編集部
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警察幹部がなぜ鬼平を愛読?──から始まった東京での「江戸」探し

Hiro_photo_H-iStock.

『鬼平犯科帳』は長谷川平蔵という実在の、いわば「警視庁・捜査1課トップ」をモデルとした小説。小説の世界と、史実の江戸と、現代の東京。古地図と想像力を携えて歩いた元新聞記者が見つけたものとは?

2020東京オリンピック・パラリンピックの開催まで1000日を切り、東京は変化のスピードを増している。あちこちでビルの建て替えが進み、渋谷駅周辺の大規模再開発はさらにピッチを上げて、延期になっていた築地市場の豊洲移転も2018年10月で合意された。今後ますます街の様子は変わっていくことだろう。

だが一方で、ずっと変わらない風景もある。1964年の東京五輪以前どころか、250年前の江戸の庶民の暮らしぶりが、今もあちこちで感じられるのが東京という街だ。

毎日新聞(東京版)の連載をまとめた『古地図片手に記者が行く 「鬼平犯科帳」 から見える東京21世紀』(小松健一、CCCメディアハウス)は、そんな東京の一面を改めて思い起こさせてくれる。

新聞社には、入社間もない新聞記者が担当することの多い「サツ回り」という仕事がある。朝・夕と警察署を回って、事件や事故の有無を確認し、何かあれば現場へ駆けつけるのが仕事だ。著者の小松氏は、毎日新聞記者としてそのサツ回りをしていた頃に、『鬼平犯科帳』を愛読する警察幹部が少なからずいることを知ったという。

『鬼平犯科帳』は池波正太郎の代表作の1つで、長谷川平蔵という実在の人物がモデルになっている。1787年に江戸の「火付盗賊改方(ひつけとうぞくあらためかた)」、現在で言う警視庁・捜査1課のトップになった人物だ。

時代小説の主人公に過ぎないと思っていた「鬼平」が、現在の警察官や警察組織にとっても何らかの指針なり教訓なりを与えている――そのことに驚き、興味を駆られた著者は、古地図を片手に、鬼平が活躍した江戸の風景を求めて街に出た。

鬼平と平蔵

「火付盗賊改方」とは文字どおり、放火や窃盗・強盗といった凶悪事件を担当する。江戸幕府はいわば軍事政権なので、火付盗賊改方も、治安維持部隊である「先手組」から派遣されていたという。長谷川平蔵は、そのトップである長官を8年にわたって務めた。これは歴代最長記録だそうだ。

「鬼平」という名から、さぞかし町民に恐れられたのだろうと思いきや、史実の平蔵は、池波が小説に描いたとおりの人物だったらしい。平蔵が活躍した当時の江戸の出来事を書き記した『よしの冊子』という史料にある記述を、著者が紹介している。


 捕らえた盗賊の身なりが粗末だったので、平蔵は着物を買い与えてから連行したこと。市中見回りの途中、派手な夫婦喧嘩に遭遇した平蔵が仲直りさせたこと、どうせ捕まるのなら町奉行所よりも慈悲深い平蔵のお縄にかかりたいと盗賊が自首したこと、江戸の庶民の間では「いままでにいなかった素晴らしい火盗改方の長官だ」と評判で慈悲深い方だと喜ばれていたこと......。(本書14~15ページより)

火付盗賊改方の役宅の場所は

まさに正義の味方。だが同じ史料によれば、見回りの途中で貧しい者に小銭を与える姿を指して「仁政の安売り」と嫌悪したり(「仁政」とは、思いやりのある政治のこと)、火事が起きればいち早く屋敷の提灯を掲げさせて火事場泥棒を防ぐ平蔵のことを「スタンドプレー」と揶揄したりする声もあったようだ。いつの時代も、やっかみというものはあるらしい。

一方の鬼平(小説の長谷川平蔵)も、決して勧善懲悪の人物ではない。「時に盗賊の視点で世の矛盾を突き、悪人とされる人間にも理があること、善人と評される人間も、善と悪の狭間で葛藤を抱えていること」(「あとがき」より)といった人間の心情が描かれているからこそ、池波の作品の中でも特に時代を超えて愛されているに違いない。

小説と史実

そんな平蔵が率いた火付盗賊改方の役宅(今で言う官舎)があったのは、現在の千代田区役所・九段第3合同庁舎ビルが立つ場所(千代田区九段南1)あたり。皇居北の清水門から望めるため、小説では「清水門外の役宅」と呼ばれ、物語の主舞台となっている。実際この地は、幕府の公用施設「御用屋敷」の跡地であり、今も昔もお上の御用を務めている。

だがこれは、あくまで小説『鬼平犯科帳』における設定だ。史実としては、火付盗賊改方の役宅は長官の屋敷、つまり平蔵の屋敷に置かれていた。

史実の長谷川平蔵は、19歳の時に築地・鉄砲洲(中央区湊)から本所・菊川町(墨田区菊川)に引っ越し、1795年に50歳で亡くなるまで、この菊川町で暮らした。したがって、当時の火付盗賊改方の役宅も、ここにあったことになる。地下鉄・都営新宿線の菊川駅前には、屋敷跡の銘板があるそうだ。

この菊川町の北に、本所・入江町(墨田区緑)がある。実はここにも、墨田区が「長谷川平蔵の旧邸」という案内板を設置している場所がある。現在はコンビニエンスストアになっているが、こちらは、小説上で長谷川平蔵の屋敷が置かれた場所なのだという。

このコンビニエンスストアには、かつて平蔵とは無縁の、別の長谷川という旗本の屋敷があった。池波正太郎も、著者のように古地図を持って江戸の街を歩き回り、この地を探し当てたのかもしれない。

史実ではない、小説上で設定された場所までもがこうして「史跡」となっていることから、改めて『鬼平犯科帳』の人気ぶりがうかがえる。小説は累計2700万部を突破しているそうだが、1969年から続いたテレビドラマの影響も大きいだろう。ちなみに2017年には、初のアニメ化もされている。

どこまでが「江戸」だった?

過去から未来へ

江戸は「100万都市」だったと言われるが、もちろん正確な数字が残っているわけではない。8代将軍・吉宗の命で正式な人口調査が行われるようになったものの、対象は町人だけ。それでも残っている記録によると、町人はおよそ50万人。それに武家人口などを合わせて100万人というわけだ。

では、その100万人はどこに住んでいたのか。つまり、どこからどこまでが「江戸」だったのか? 幕府に仕えていた者(平蔵もそう)は、「江戸城を中心に4里(約16キロ)四方」の外に出る際には外出届を出す必要があったが、実は境界に関しては、幕府の機関によって解釈がまちまちだった。

1818年に初めて統一された境界によれば、現在の目黒区は「江戸」ではなかった。実際、千代ヶ崎(現・目黒区三田2付近)という高台から見る目黒~世田ヶ谷には田園風景が広がり、丹沢の山並みから富士山までを一望できたそうだ。

そんな江戸郊外にあって、富くじの抽選会も行われていた目黒不動(瀧泉寺)は人気スポット。長谷川平蔵も参詣に訪れて、門前の「桐屋」という店で黒飴を買っている。もちろん小説の中の話だが、店は実在していた。江戸の町の様子を記した『江戸名所図会』(1834・36年刊行)にも取り上げられるほど評判だったようだ。

このようにして著者は、『鬼平犯科帳』と古地図、さらにその他の歴史資料とを照らし合わせながら、21世紀の東京を歩いていく。活気あふれる江戸の町に生きた長谷川平蔵や町人たちの姿を、現代の東京の街に映し出すために「大切なのは古地図と、豊かな想像力」。

だが本書を携えれば、あとは想像力さえあればいい。小説と史実、江戸と東京を行きつ戻りつしながら、来たる2020年へと思いを馳せてみよう。

文:ニューズウィーク日本版ウェブ編集部


『古地図片手に記者が行く
「鬼平犯科帳」 から見える東京21世紀』
 小松健一 著
 CCCメディアハウス