映画『ルーブル美術館の夜 ダ・ヴィンチ没後500年展』と尽きせぬ魅力をもつレオナルドを巡る、ふたりの美術史家の対話。

  • 写真(ポートレート):奥山智明 取材協力:瀧本みわ(東京藝術大学 非常勤講師)

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ルーヴル美術館で開催され大きな話題を呼んだ展覧会を、丸ごと映画に収めるという豪華な試みが具現化した『ルーブル美術館の夜 ダ・ヴィンチ没後500年展』。10年かけて展覧会を準備したキュレーターに、ダ・ヴィンチ研究で知られる美術史家・池上英洋が話を聞いた。

2018年、過去最高となる1020万人の年間入場者数を記録したルーヴル美術館。メトロポリタン美術館や大英博物館を引き離し、世界トップを誇る。映画『ルーブル美術館の夜 ダ・ヴィンチ没後500年展』はルーヴル美術館の魅力にあらためて触れられる作品でもある。© 2013 Musée du Louvre Ouadah

ルネサンス期に活動し、世界で最も有名な芸術家のひとりであるレオナルド・ダ・ヴィンチ。その没後500年にあたる2019年、パリのルーヴル美術館で空前の規模の展覧会が開催された。《ラ・ジョコンダ(モナリザ)》など5つの絵画を保有するルーヴルに、他の美術館が所蔵する絵画、素描、手稿など計160点ほどが集結。最新研究をふまえ、いまも人々を魅了するダ・ヴィンチの創作の全貌をひも解く試みだ。



そして約4カ月の会期で100万人を動員したこの展覧会を記録した映画、『ルーブル美術館の夜 ダ・ヴィンチ没後500年展』が、2021年1月1日から日本でも公開される。誰もいない夜のルーヴル美術館を舞台に、高精細カメラによる美しい映像とふたりのキュレーターによる案内で、展覧会の魅力を余すことなくドキュメント。映画の公開に際し、キュレーターのひとりでルーヴル美術館の絵画部門主任学芸員を務めるヴァンサン・ドリューヴァン氏に話を聞いた。


聞き手は、東京造形大学の池上英洋教授。イタリアを中心とする西洋美術史・文化史が専門で、『レオナルド・ダ・ヴィンチ 生涯と芸術のすべて』『レオナルド・ダ・ヴィンチ よみがえる天才2』など、ダ・ヴィンチに関する著作も多い。また、《受胎告知》が来日した2007年の『レオナルド・ダ・ヴィンチ -天才の実像』の日本側監修者でもある。ルーヴルでの展覧会と同じ2019年に向けて、ダ・ヴィンチの絵画作品16点すべてをバーチャル復元するという世界初の試みも話題になった。


ダ・ヴィンチに魅せられたふたりの美術史家による濃厚な対話を、池上教授による解説を挟みながらお届けする。

ヴァンサン・ドリューヴァン(Vincent Delieuvin)●美術史家。2006年にルーヴル美術館に入り、現在は絵画部門の主任学芸員を務める。素描・版画部門の統括学芸員ルイ・フランクとともに展覧会のキュレーターを担当し、『ルーブル美術館の夜 ダ・ヴィンチ没後500年展』にはナビゲーターとして出演。他の担当企画展に、フランス有数の近代絵画コレクションをもつシャンティイ城コンデ美術館での『La Joconde nue(The Naked Mona Lisa)』など。パリの自宅で取材に応じ、映画の中の威厳ある雰囲気とはまた違うリラックスした様子で語ってくれた。©Pathé Live
池上英洋(いけがみ ひでひろ)●美術史家・東京造形大学教授。1967年広島生まれ。東京藝術大学卒業、同大学院修士課程修了。専門はイタリアを中心とする西洋美術史・文化史。日本文藝家協会会員。著書に『レオナルド・ダ・ヴィンチ 生涯と芸術のすべて』(筑摩書房、第四回フォスコ・マライーニ賞)ほか多数。レオナルドの絵画全作品をヴァーチャル復元した『レオナルド・ダ・ヴィンチ没後500年 夢の実現展』(制作:東京造形大学)の監修者。

――まずは昨年のルーヴルでのレオナルド展について、立ち上げた経緯を教えていただけますか?

2019年はレオナルド・ダ・ヴィンチの没後500年にあたります。レオナルドは1516年から亡くなるまでの最晩年の約3年間を、フランソワ1世の庇護のもとフランスで過ごしました。そのおかげでいまルーヴルには5点の絵画(*1)があり、ルーヴルだけでなくフランスの美術コレクションの中核を担っています。そんなことからこの展覧会の企画はスタートしました。

*1 《ラ・ジョコンダ(モナ・リザ)》《ラ・ベル・フェロニエール》《岩窟の聖母》《聖アンナと聖母子》《洗礼者ヨハネ》を所蔵。


――展覧会の準備は何年前から始まったのでしょうか。

私がルーヴルに学芸員として入ったのは2006年で、その直後からレオナルドの作品を調査し始めたのでもう十数年経ちました。その間、この展覧会のために科学的な調査を行い、3点の絵画の修復(《聖アンナと聖母子》《ラ ・ベル・フェロニエール》《洗礼者ヨハネ》)、素描を含む全所蔵作品の研究と資料整理を、本展のもうひとりのキュレーターである、素描・版画部門統括学芸員のルイ・フランクと行いました。


――ヴァチカン美術館(《聖ヒエロニムス》)やエルミタージュ美術館(《ブノワの聖母子》)からも絵画作品が来ていて驚きました。それらの所蔵館では没後500周年の記念イベントができなくなるにもかかわらず、なぜ長期間借り受けることができたのでしょう。

他の美術館の学芸員たちもこの展覧会のコンセプトに賛同してくれました。というのも今回の企画の目的は、各美術館にちらばっていた絵画や準備素描をルーヴルに集めて、新たな文脈で捉え直すことだったからです。そういった意味で、ヴァチカンでもエルミタージュでもレオナルド作品は孤立していたわけですから、それらを一堂に集め、比較しながら読み直すという目的に学芸員たちも賛同してくれたのです。

映画より、ルーヴル美術館にやって来たエルミタージュ美術館所蔵の《ブノワの聖母子》。神々しいというより、普遍的な母子として描かれている。作品名は、本作の所有者であったフランスの画家、レオン・ブノワにちなんでいる。©Pathé Live

――ウフィツィ美術館(*2)とロンドンのナショナル・ギャラリー(*3)とも交渉をしましたか?

*2 絵画では《受胎告知》《東方三博士の礼拝》を所蔵。*3 絵画では《岩窟の聖母》を所蔵。

はい。ただ、ナショナル・ギャラリーが所蔵する《岩窟の聖母》は2m近い高さがあり、また支持体である4枚の板は壊れやすいため持ち運びができません。そのため最初から貸与を依頼する予定はありませんでした。一方で《聖アンナと聖母子、洗礼者ヨハネ》のための準備素描として重要な《バーリントンハウス・カルトン》とレオナルド周辺画家の絵画を1点を借り受けました。ウフィツィのほうも、《東方三博士の礼拝》は板に描かれたとても繊細な絵画で移動が困難ですが、《レダと白鳥》と《アンギアーリの戦い》の模写、数点の素描を借りることができました。

赤外線撮影写真を用いたかつてない展示で、制作過程に迫る。

――昨年のルーヴルにおける展覧会の最大の特徴は、全作品の原寸大の赤外線撮影写真を展示した点にあると思います。私たち研究者はそれが下絵を知るために不可欠な手段だと知っていますが、一般鑑賞者向けにも展示しようとなさった目的を説明していただけますか?

赤外線写真はこの展覧会の特徴的な点のひとつだと思います。レオナルドの絵画作品はとても少ないのですが、一つひとつの作品に長い時間をかけています。赤外線写真を見せることで、その驚くべき制作過程を知ることができます。また、赤外線写真で得られる情報は、その他の素描と結び付けることが可能になりますし、赤外線写真自体が美しく鑑賞に値します。このような展示方法は、オリジナルの作品が展示できない場合に、鑑賞者に作品の原寸を示すためにも用います。写真はオリジナルの作品にはかないませんが、赤外線写真は実際の絵画とまったく異なるもので、美的観点からも、またその情報力からも注目すべきものです。鑑賞者もそのことを感じ、大きな反響を呼び起こしました。


――あれほど学術的な内容の展覧会を開催できることを、うらやましく感じました。

ありがとうございます。楽しんでいただきうれしく思います。

映画より、『受胎告知』の赤外線写真を解説するドリューヴァン氏。©Pathé Live
【解説】美術史研究をガラリと変えた技術のひとつが、赤外線反射撮影技術。絵画作品の多くは、木炭などで下絵を描いた上から絵具(顔料)が塗られている。私たちが目にしているのは表面の顔料層だけで、その下に隠れている下絵の線はふつうは見ることができないが、赤外線撮影写真ではその線を見ることができる。これによって、画家の試行錯誤の跡がわかったり、線の特徴によって画家を特定できるようになった。

――100万人以上の来場者を記録し大成功を収めましたが、フランスでの反応はいかがでしたか。

フランス人にとってレオナルド人気が高いということもありますが、当時の国王フランソワ1世がレオナルドを宮廷に招いて王子のように厚遇し、死去するまでの3年間をアンボワーズの宮廷という素晴らしい環境で過ごしたことに、フランス人は誇りを感じています。またフランソワ1世が、《ラ ・ジョコンダ》を含めた彼の絵画を高額で購入したおかげで、ルーヴルに5点の絵画があるわけです。こうした歴史的経緯によって、ルーヴルが唯一無二のレオナルド・コレクションを有しています。レオナルドの歴史の一部が、フランスの歴史の中に、そしてフランス人の記憶に刻まれているのです。


――続いて、映画についてうかがいます。展覧会を映画化しようした経緯を教えていただけますか?

展覧会は大好評でしたが、パリに来られなかった方も大勢います。だから、フランスの映像制作会社パテ・ライブからの映画化のオファーは夢のようでした。展覧会は準備に時間をかけ多額の予算を投入しているものの、開催は4カ月のみ。それに対して映画は永遠に残りますから。そして映画という形で国外でも観てもらうことができる。特に日本は、ルネサンス期の絵画やレオナルドの作品に対する関心がとても高いですからね。


――新型コロナウイルスの影響で、日本のほとんどの方は海外に行くことができません。この映画は日本にいながらにして、バーチャルでルーヴル美術館を愉しめる機会になりますね。

はい。美術館などに行くことが難しくなった現在の状況のなかで、文化に触れる機会として映画があることをうれしく思います。

映画より、アンドレア・デル・ヴェロッキオ《聖トマスの懐疑》。ダ・ヴィンチは早ければ13歳頃にヴェロッキオの工房に入門。この彫刻や、ダ・ヴィンチが手がけた素描を通して、ダ・ヴィンチの類まれな描写力を解説していく。© Musée du Louvre Antoine Mongodin

――映画は夜のルーヴルで始まり、夜明けのシーンで終わります。日本のNHKテレビで昨年のレオナルド展を番組にするにあたり、私も二日間ほど、22時から翌朝4時まで、深夜のルーヴルを堪能しました。「夜のルーヴル美術館」が持つあの独特の魅力を、その時間に入れない一般の方に対して語っていただけますか?

それは幸せな体験をなさいましたね。閉館後の美術館では、詩的で静寂な時間を過ごすことができます。そして館内を照らすのは都市の光と月明り。新しい影の効果が生まれ、作品は日中とまったく違う印象を放ち、“ヌーベル・ポエジー(新しい詩)”とでも言うような感覚が生まれてきます。


――そうなんですよね。

映画のなかでも、こうした夜のルーヴルがもつ魅力がよく表されています。厳かで広大な美術館を、ひとり見て回る。怖がる人も多いかもしれませんが、その神秘的な体験を映画で味わえると思います。

映画より、上空から捉えたルーヴル美術館。美術館の中庭、ナポレオン広場に浮かぶように佇むルーヴル・ピラミッドが神秘的だ。メインエントランスとしての機能をもつルーヴル・ピラミッドは、中国系アメリカ人建築家のイオ・ミン・ペイが設計し、1989年に竣工。建築当初は大きな議論を呼んだが、いまやパリを代表するランドマークになっている。©Pathé Live

完成品として現存する絵画はわずか4点。その理由とは?

映画より、ダ・ヴィンチの手稿。科学分野への大いなる好奇心と知識がダ・ヴィンチ作品の核となっていると、ドリューヴァン氏は解説する。©Pathé Live

――「レオナルドに関するミステリーを否定し、人間性に光をあてたい」と映画の中で話されていましたね。ドリューヴァンさんはレオナルドの人間性についてどのような印象をおもちですか?

19世紀後半以降、レオナルドはなにか秘密を絵の中に隠したり、鏡文字でわからないように書いたといった、魔術師的なイメージによってカルト的な人気が出てしまっています。でもそうした既存の概念ではなく、レオナルドは科学の人、理性の人であり、自分が得た知識を工房や人々に伝え議論するというオープンな人だった。世界や自然を知るために探究し、その知識を共有したいと思う宮廷人だったと言えるのではないかと思います。


――映画のなかで、レオナルドに未完作品が多い点について、あえて未完にとどめた「未完の美」を理由に挙げていました。実は私は、彼の未完癖はほとんど彼の気質に由来すると考えているのですが、その点について少し意見を聞かせていただけますか?

映画のなかでは総合的なビジョンという形で、“未完の美”について語りました。というのも、レオナルド自身がなぜ未完のままにしたのかという記述が残っていません。答えはひとつではないと思いますが、池上先生のおっしゃるように気質の問題もあるということに私も同感です。彼にとって絵画とは、絵画を創り上げていく経験そのものでしたから、あと10年長く生き永らえようと、結局は未完のままであったと思います。また、長い年月にわたって作品を制作していく過程で、何度も加筆したり、変更を加えることで完成を先に延ばしていく、それこそが未完の美を形作っているのだと思います。そして未完のままにしておくことで生まれる表現の強さや美しさに気づいたのではないでしょうか。レオナルドも、彼と同時代の作家も、そういった強さを知ったのではないかと思います。

映画より、《ほつれ髪の女》。わずかに微笑む様子の美しさに心奪われる、未完成の絵。イタリアのパルマ国立美術館所蔵。©Pathé Live
【解説】レオナルドが遺した絵画作品はとても少ないうえに、そのほとんどが未完成で終わっている。なかには、《聖ヒエロニムス》のように、彩色されることなく下絵段階のまま放置された作品もある。ただ不思議なことに、それらは下絵と呼ぶにはあまりにも濃密に描かれている。ミケランジェロによる《奴隷》などにもしばしば用いられる、制作を意図的に止めた「未完の美(インフィニタ)」の例なのかもしれない。

――今後、レオナルド自身の作品以上にレオナルデスキの調査が重要になると思います。ドリューヴァンさんが注目しているレオナルデスキやその作品があれば教えていただけますか?

現在ルーヴルでは、レオナルド及びレオナルデスキによる絵画を調査するリサーチセンターの設置が計画されています。実際に調査が進められていて、レオナルデスキの複数の絵画の調査結果を分析しているところです。たとえば、レオナルドの構想を基にした模写群がありますが、レオナルドの監督下で弟子たちが描いた作品が、レオナルド自身のオリジナルよりも前に完成されていることがわかりました。非常に興味深い結果です。よって、こうしたレオナルデスキの模写の研究は、工房での弟子たちの制作手順、すなわち赤外線写真によって判明する下絵や、顔料による彩色層の技法を知ることができます。そして、調査を進めれば進めるほど、レオナルドの弟子たち一人ひとりの特徴を明確にすることができるので、その結果をカタログ化することが可能となります。

なぜこのような作業をするかというと、レオナルデスキの絵画に関しては、その帰属について、まだまだ大きな議論が残されているからです。ジャンピエトリーノ、マルコ・ドッジョーノ、ジョヴァンニ・アントニオ・ボルトラッフィオ、サライ、フランチェスコ・メルツィなど有名な弟子たちがいますが、彼らに帰属する作品群は、研究者の間では異論も多い。そうしたことからも、科学的調査による分析は今後の研究に役立つと考えられます。

ダ・ヴィンチの最愛の弟子、フランチェスコ・メルツィによる《フローラ》(修正後)。良質でかつレオナルド様式に忠実である。エルミタージュ美術館所蔵。©Alamy/amanaimages
【解説】ルネサンス時代の芸術家は、自分の工房を運営する親方(マエストロ)でもあったた。レオナルド工房の規模は小さく、5~6人の弟子を抱えていたようだ。彼らは親方の様式を見よう見まねで学ぶところから始まり、やがて独立していく。親方の様式はそのようにして伝えられ徐々に広がっていくわけだ。彼ら弟子たちや追随者のように、レオナルドの様式を伝えた人々のことを「レオナルデスキ」と呼ぶ。

――《最後の晩餐》の制作当時の姿を知るために、映画にも登場するマルコ・ドッジョーノによる模写作品は大きな手がかりになると思いますが、それにしては室内背景が大きく異なる点も気になります。なぜそこだけが実際の壁画と大きく違うとお考えですか?

本展では《最後の晩餐》に関して、1点の下絵と、数点の非常に美しい頭部の模写を展示しました。同時に、オリジナルの大きさに近い作例で、全体的な構想を把握してもらいたいという意図もあり、マルコ・ドッジョーノの模写を展示しました。《最後の晩餐》の模写のなかでも、文献資料によって最も古いとされるドッジョーノの模写は、ルーヴル美術館が管轄するパリ北部のエクーアン城(国立ルネサンス美術館)が所有しています。この模写は、1506年に注文されました。その際、注文主は、レオナルドのオリジナルよりも少し小さなサイズで注文しています。もちろん、小さいとはいえ、幅約5.5mと、それなりの大きさをもつ作品です。

そして、池上先生が指摘するように、登場人物の描写や食卓の上のモチーフがオリジナルに忠実であるのに対して、背景には、忠実に再現するという関心は見られません。それは、注文主にとっては、背景の忠実な再現はあまり重要でなかったためと考えられます。よって、ドッジョーノの《最後の晩餐》の模写は、模写として最古のものであるという点、そしてキリストと使徒たちの身振りと彼らの食卓に関するオリジナルの忠実なる再現であるという点で重要であるといえます。

映画よる、マルコ・ドッジョーノが手がけた《最後の晩餐》模写(部分)。©Pathé Live
【解説】レオナルド唯一の壁画で、珍しく完成させ、かつ最大のサイズを誇る作品が《最後の晩餐》だ。しかし彼は壁画に適したフレスコ技法を用いず、テンペラと油彩で描いている。というのも、漆喰が乾く前に急いで制作する必要があり、塗り直しもできないフレスコは、じっくり描きたい彼には合わなかったためだ。そのため顔料がかなり剥落してしまった。弟子のドッジョーノによる模写は、制作当時の状態を伝える貴重な証言である。

ダ・ヴィンチ研究に欠かせない、レオナルデスキの調査。

今回の取材は、東京の池上教授(写真上)とパリのドリューヴァン氏をつなぎビデオ会議で行った。イタリア語や英語も交えた取材は予定時間を超えるほど盛り上がった。取材協力の瀧本みわ氏(東京藝術大学、専門は西洋美術史)は日仏の通訳を担当。流暢なフランス語と専門知識で取材をサポートしてくれた。

――《糸巻きの聖母》などは、赤外線写真によって確認できる下絵こそがレオナルド作品で、現在目にする彩色部分はほとんどレオナルドの工房か追随者によるものと思われるのですが、その点に関してはいかがお考えですか?

池上先生のプロジェクトで復元された作品を非常に興味深く拝見しました。確かに、このことは非常に興味深い点です。なぜなら、この1世紀の間、研究者たちの間で、《糸巻きの聖母》作品群の帰属問題に関して、大きくふたつの見解があり、未だ解決をみないためです。一部の研究者たちは、<ランズダウン版>の《糸巻きの聖母》に、また他の研究者たちは、<バクルー版>にレオナルドの関与を指摘しています。

今回の展覧会では、幸運なことにこの2点の作品を比較できるよう、真横に並べて展示することができました。そのうえ、この2点に関しては、最新の科学的調査の結果をあらかじめ踏まえたうえでの展示となりました。最新調査とは、今後の研究に非常に役立つ「ピグメント・カルトグラフィー(顔料分布図)」と呼ばれるもので、赤外線写真によって得られた情報を、より詳細に、明確に示すことが可能となりました。

こうした科学的調査の結果、2点のうちの1点<ランズダウン版>の下絵が、レオナルド自身の手によるもの――すなわちルーヴル所蔵《聖アンナと聖母子》と非常に類似していることがわかりました。よって、このバージョンが、レオナルドの手による下絵であると推定できます。その一方で、《糸巻きの聖母》の作品群の彩色層に関して、レオナルドの真筆であると研究者たちの意見が一致する絵画、たとえば《ラ・ジョコンダ》や《聖アンナと聖母子》などと比較するならば、そこには大きな違いがあります。<ランズダウン版>《糸巻きの聖母》の画家は、人物の肉付けのために、赤い線影を付け加えています。この赤い線影の手法は、たとえばプラド美術館にある《ラ・ジョコンダ》の派生作品にみられる特徴ですが、ルーヴルが所蔵する、レオナルドの真筆による《ラ・ジョコンダ》《聖アンナと聖母子》《洗礼者ヨハネ》にはまったく見られないものです。

よって、《糸巻きの聖母》はレオナルドがその主題に長年関心を持ち、構図を考案し、下絵を描いたものの、その後制作を中断し、最終的に絵画制作を弟子に委ねたと考えられます。そして、レオナルド自身は、《ラ・ジョコンダ》《聖アンナと聖母子》《洗礼者ヨハネ》の制作に集中していきます。その理由はわかりませんが、このように《糸巻きの聖母》よりも、他の作品制作への関心が高くなったのです。

ダ・ヴィンチ没後500年の2019年に、「東京造形大学ダ・ヴィンチ・プロジェクト」の一環として復元された《糸巻きの聖母》。現存絵画は16点ほどとされ、完全な姿で残っている完成品は4点しかないダ・ヴィンチの絵画作品全16作品を、さまざまな手法と技術を用いてバーチャル復元した世界初の試みだ。復元作品は代官山ヒルサイドフォーラムや東京富士美術館などで、『レオナルド・ダ・ヴィンチ没後500年 夢の実現展』として公開された。写真提供:東京造形大学
【解説】フランス王の秘書官から注文された《糸巻きの聖母》は、納品されたことがほぼ確実な作品だが、2点の主要な版をはじめ、どれが該当するかには諸説ある。ただ、彼の当時の制作状況を記した人によると、彼は科学に夢中で絵はほとんど弟子に任せて時おり手を加えるだけ、とのこと。2点の版の見た目の違いは大きいが、赤外線で見える下絵はよく似ている。つまり下絵だけがレオナルドによる可能性も高いのだ。

――ありがとうございます。今後の検討のためにとても貴重な情報とご意見です。さて、デリケートな話題なので、可能な範囲でお答えください。日本でも関心が高い《サルヴァトール・ムンディ》はアブダビ・ルーヴルで展示されると思っていたのですが、今後の展開はどうなるのでしょうか。研究者としては、できればルーヴルのような保存態勢がしっかりしている機関で展示されることを望んでいるのですが。

私も同感です。展覧会ではイギリスのデッサンとふたつの模写を出展しました。2017年のオークションで史上最高値が付いた《サルヴァトール・ムンディ》について、持ち主と交渉しましたが出展は叶いませんでした。私も美術館のような研究ができる環境で保管され、皆さんにも観てもらえるような状態になることを望んでいます。2017年にルーヴル・アブダビで展示されると報道されましたが、アブダビでもパリでもルーヴル美術館での展示の予定はありません。

2017年11月、ニューヨークのクリスティーズでオークションにかけられた《サルヴァトール・ムンディ》。絵画作品としては過去最高の4億5030万ドル(現在のレートで468億円)の値が付いた。落札者はサウジアラビアのムハンマド皇太子といわれている。約©ZUMA PRESS/amanaimages
【解説】世界の救世主を意味する《サルヴァトール・ムンディ》も、《糸巻きの聖母》同様、レオナルデスキによる多くの作品が存在するが、決定的なレオナルドの真筆作品はない。そのなかで、史上最高値で落札された版は、修復によって質の高さが明らかになり、もし真筆であれば個人所有できる唯一のレオナルド絵画となるため価格が高騰した。今後、さらなる比較調査と科学分析が待たれる作品だ。

――残念ですね。ではドリューヴァンさんが次に計画されている展覧会について、可能な範囲でご紹介いただけますか?

ルーヴルは8つの部門がありますので、豊かなコレクションからさまざまな企画が準備されています。私はルネサンス絵画を専門にしていますので、レオナルデスキ、なかでもレオナルドのミラノ時代の最も才能ある弟子の一人であるボルトラッフィオについて調査を進めています。レオナルドの影響のみならず、彼自身の個性が光る作品も残しています。ルーヴルは、彼の美しい《カシオ祭壇画》と数点の素描を所蔵しています。彼は偉大な肖像画家であり、素晴らしい素描家でもありましたが、その生涯は短いものだったので、残された作品は非常に限られています。そのため、彼の作品を集めて、レオナルドとの関連、そして彼自身の作風を考察する展示を将来的に計画しています。


――最後に、日本の鑑賞者に宛てたメッセージをいただけますでしょうか。

詩的で美しいこの映画に満足しています。レオナルドの人物、作品の力強さや美しさを感じることができるはずです。そしてこの映画をご覧になったらルーヴルを訪れ、実際の作品と対面し、映像では捉えることのできないレオナルドの鋭敏な筆遣いを感じていただきたい。つまりこの映画を、“ルーヴル美術館への招待状”として観ていただきたいと思います。


『ルーブル美術館の夜 ダ・ヴィンチ没後500年展』

監督/ピエール=ユベール・マルタン
出演/ヴァンサン・ドリューヴァン、ルイ・フランク
2020年 フランス映画 1時間35分
2021年1月1日(金)よりBunkamuraル・シネマほかにて公開
https://liveviewing.jp/contents/louvre/

映画『ルーブル美術館の夜 ダ・ヴィンチ没後500年展』と尽きせぬ魅力をもつレオナルドを巡る、ふたりの美術史家の対話。

  • 写真(ポートレート):奥山智明 取材協力:瀧本みわ(東京藝術大学 非常勤講師)

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